
■師岡熊野神社
このところ、山に行こうと準備をして床に就くのですが、朝、起きることができず、ずっととん挫しています。
山に行くには、早朝、5時すぎの電車に乗らなければならないのですが、どうしても寝過ごしてしまうのでした。目覚ましでいったん目が覚めるものの、再び寝てしまい、あとで自己嫌悪に陥るという年甲斐もないことをくり返しているのでした。それだけ山に行くモチベーションが下がっているとも言えます。
昨日の朝も起きることができずに中止にしました。それで、午後から散歩に出かけたのですが、半分やけになっていたということもあって、15キロ21500歩を歩きました。
まず最初に、この界隈の鎮守神である熊野神社に行ってお参りをしました。熊野神社は、鎮守の森にふさわしい小さな丘の上にあります。社殿に参拝したあと、神社の裏手にまわってみると、裏山に登る「散策道」と書かれた階段がありました。神社には何度が来ていますが、そんな道があるなんて初めて知りました。
それで木の階段を登ってみました。すると、「権現山広場」という標識が立てられた山頂に出ました。広場には東屋やベンチが設置され、木立の間から綱島方面の街並みを見渡すことができました。その中に、新綱島駅の横に建設中のタワーマンションがひときわ高くそびえていました。
写真を撮ったあと、神社に戻るため階段を下りていたら、下から話声が聞こえてきました。すると、制服姿の女子校生と上下ジャージ姿の少年が登ってきたのでした。少年はまるで登山ユーチューバーのように(笑)、女子高生の後ろでスマホをかざして登っていました。
■昔の思い出
熊野神社をあとにして、表の幹線道路まで戻り、幹線道路沿いに綱島の方向に歩きました。しばらく歩くと、幹線道路は鶴見川にかかる橋(大綱橋)を渡ります。前々日も鶴見川の土手を歩いたばかりなのですが、今度は対岸を新横浜方面に向かって歩きました。
新横浜に着いたら、既に17時をまわり、街は駅に向かう勤め人たちで溢れていました。散歩を終了して帰ろうかと思ったのですが、何故かふと思い付いて、新横浜駅から市営地下鉄で横浜駅に行くことにしました。
横浜駅も帰宅を急ぐ勤め人たちで、スムーズに歩くのも苦労するくらい混雑していました。まるで競争しているみたいに、みんな、歩くのが速いのです。横浜駅の中は相変わらず迷路のようになっており、久しぶりに来ると、方向感覚が順応せず戸惑ってしまいます。
しかも、駅から表(西口)に出ると、巨大な開渠のようなところに線路が束になって走っているため、手前の道から向かいの道に行くのさえひどく遠回りしなけばならないのでした。
開渠の上の橋を渡って、再び駅の方向に歩いて、目に付いた新しい建物に入ったら、そこは地下の出口が駅の中央通路につながっている、横浜駅ではおなじみのルミネのビルでした。しかし、夕方のラッシュ時というのに、ルミネの中は閑散としていました。反対側の東口に、建て替えのため2011年から休業していた同じJRグループのCIALが2020年にオープンしたばかりなので、そっちに客を取られているのかなと思いました。
サラリーマンの頃、CIALやビブレの中のテナントや東口の松坂屋や東口のそごうを担当していましたので、公私ともにいろんな思い出があります。あの頃は若かったなあとじみじみ思うのでした。
■『デパートを発明した夫婦』
ルミネを出てから、東口の地下のポルタを通って、その突き当りにあるそごうに行きました。そごうを訪れたのも数年ぶりです。そごうもまた、夕方の書き入れ時にしては客が少なくてびっくりしました。コロナ前、1階の入口付近はもっと買い物客で混雑していました。入口では、年末の商店街のような抽選会をしていたのにも驚きました。デパートでそんなことをするのかと思いました。
昔、そごうの外商が全国チェーンの店にフランスの版画家のポスターを売ったとかで、テナントで入っていた画材店から依頼を受け、ポスターを納入して徹夜で額装したことを思い出しました。たしか、7階の今の紀伊国屋書店のあたりに店があったように思います。
紀伊国屋書店がまだ健在だったのでホッとしましたが、紀伊国屋もその手前にあるロフトも、前に比べたら客はまばらで先行きが心配される感じでした。
1987年、旧セゾングループが渋谷にロフトを作ったときもオープンに立ち会いましたので、ロフトにも思い入れがあるのですが、その頃と比べるとまったく様変わりしており、今のロフトは似て非なるものと言ってもいいくらいです。東急ハンズも既に売却されてただのハンズになりました。ソニープラザはもっと前に売却されて、やはりただのプラザになっています。
折しも、鹿島茂氏の『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書)を読み返しているのですが、あらためて、もうデパートの時代は終わったんだな、としみじみした気持になりました。そごうだけでなく、一世を風靡し業界では「イケセイ」と呼ばれていた池袋西武も、殺風景な新宿西口をミロードやモザイク通りとともにオシャレな街に生まれ変わらせた小田急ハルクも、もう見る影もありません。東京や横浜以外で昔担当していたデパートは、その大半が既に姿を消しています。世界で初めてデパートのボン・マルシェがパリに誕生して170年、あのバブル前のイケイケドンドンの頃からまだ30年しか経ってないのです。こんなことになるなんて誰が想像したでしょうか。グローバル資本主義とインターネットの時代の荒波に呑み込まれて、瞬く間に海の藻屑と化した感じです。というか、それらに引導を渡されたと言った方がいいかもしれません。
『デパートを発明した夫婦』は、1991年のデパートが時代を謳歌する(謳歌しているように見えた)イケイケドンドンのときに書かれたのですが、著者の鹿島茂氏は、その中で、「近代資本主義は、デパートから生まれた」と書いていました。まさにデパートは使用価値から交換価値への転換と軌を一にした近代という時代を映す「文化装置」でもあったのです。そんなデパートの時代が終焉を迎えたのは、大衆消費社会と私たちの消費生活の構造的な変化が起因しているのは間違いないでしょう。それは、資本主義の発達とともに変遷した時代精神の(ある意味)当然の帰結でもあったと言っていいのかもしれません。
1887年、パリのバック街とデーヴル街とヴェルポー街とバビロン街の四方に囲まれた広大な土地に建設されたボン・マルシェの新しい店舗は、「商業という従来の概念をはるかに超越した新しいスペクタル空間だった」と鹿島氏は書いていました。
(略)万国博覧会のパヴィリオンと同じように、鉄骨とガラスでできたこの〈ボン・マルシェ〉のクリスタル・ホールは、パノラマやジオラマのような光学的イリュージョンを多用したスペクタルと同様の効果を客に及ぼすものと期待されたのである。仰ぎ見るほどに高い広々としたガラスの天窓からさんさんとふり注ぐ眩いばかりの陽光は、店内いっぱいに展示された目もあやな色彩の布地や衣服を、使用価値によって判定される商品から、アウラに包まれた天上的な何物かへと変身させてしまう。
( 『デパートを発明した夫婦』)
オシャレをする高揚感がなくなったように、このようなデパートという空間に存在したハレの感覚とそれに伴う高揚感もなくなったのです。
私は、コロナ以後、長い間苦しめられていた花粉症の症状がピタリと止み、例年になく花粉の量が多いと言われている今年もほとんど症状が出ていません。それで、先日、病院に行った折、ドクターとその話になりました。「年を取ったので、免疫機能が低下したからでしょうか?」と訊いたら、ドクターは、「花粉症というのは、バケツの中の水がいっぱいになってそれ以上入らなくなったことで、抗体が高止まりした状態になり過剰に反応するからですが、ずっと満杯状態が続くと抗体に免疫ができるということはあるでしょうね」と言っていました。
私たちは、資本からさまざまなイメージを与えられ欲望をかきたてられています。流行などがその典型ですが、そうやってまるで何かにとり憑かれたように次から次へと新しい商品を手に取るようになるのです。資本主義は、私たちの飽くなき欲望をかきたてることで過剰生産恐慌の宿痾から逃れることができました。しかし、私たちの欲望のバケツも、いっぱいになり、消費することに高揚感がなくなってしまった。つまり、近代資本主義で神聖化されていた交換価値に免疫ができて、その魔法が効かなくなった。そう解釈することもできるのではないでしょうか。
そう考えれば、水野和夫氏ではないですが、デパートに引導を渡したグローバル資本主義も、所詮は死に至る資本主義の最後のあがきのようにしか見えないのです。
紀伊国屋で本を買ったあと、横浜駅から久しぶりに通勤客にもまれて電車で帰りました。
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