チャットGTP


■新しいものを無定見に賛美する声


横須賀市が、全国の自治体で初めて、生成AIのチャットGPT を試験的に導入したというニュースがありました。

共同通信 KYODO
横須賀市、チャットGPT試験導入 全国自治体で初

これについて、既にみずからもメールの作成などにチャットGPT を使っているという「モーニングショー」の某女性コメンテーターが、仕事の効率化のためにはとてもいいことです、というようなコメントを述べていました。

ただ、上記の記事にもあるように、チャットGPT は「データ流出の懸念も指摘」されており、メールと言えども相手の個人情報等が含まれている場合もあるでしょうから、彼女とメールでやり取りする人間はその覚悟が必要でしょう。

『週刊東洋経済』(4月22日号)の「特集 Chat GTP仕事術革命」の中でも、次のように書かれていました。

Chat GTPの無料版では、入力したデータがサービス改善に使われる。(略)3月20日には他人のチャット履歴が閲覧可能になるハグも発生した。

(略)イタリアのデータ保護当局は、3月末、Chat GTPの使用を一時禁止する措置を発表した。その理由の一つとして、AIを訓練するために個人データを収集・処理することに法的な根拠がないことを挙げている。


チャットGTPというのは、要するに、私たちがネット上で使った文章や会話や評価(正しいかどうか)の自然言語を収集し、そのデータを学習や調整の機能を持つアルゴリズムでチューニングしたものを、文章生成モデルに落とし込んで文章や会話を作成することです。AIも基本的な仕組みは大体このようなものです。

当然、AIという言葉が使われるようになった頃から開発がはじまっていたのですが、それがここに来て突然、チャットGTPが登場して、第4次産業革命が訪れるなどとセンセーショナルに扱われているのでした。

ネットのサービスに対しては、何でも新しいものを無定見に賛美し、乗り遅れると時代に付いていけなくなるというような、それこそAIが答えているようなお決まりの言説があります。特に寄らば大樹の陰のような日本ではその傾向が強く、ヨーロッパのようにいったん留保して考えるではなく、官民あげて無定見に前のめりになっている感じは否めません。しかも、そのサービスの大半はアメリカのIT企業が作ったものです。

4月10日には、チャットGTPを開発したオープンAI社のサム・アルトマンCEOが首相官邸を訪れ、岸田首相と面談し、その中で東京に開発拠点を置くことをあきからにしたそうです。日本はEUなどに比べてGoogleに対する規制も緩く、ネットで個人情報が抜き取られる問題に対しても極めて鈍感です。にもかかわらず、女性コメンテーターのように無定見なネット信仰者が多いので、彼らには美味しい市場に映るのでしょう。

そんなにチャットGTPが素晴らしいのなら、市役所の業務だけでなく、この女性コメンテーターもAIのアバターに変えればいいのではないかと思いました。彼女たちコメンテーターは、ニュースに対して、世の中の流れを読みながら当たり障りのない回答するのが役割です。それこそチャットGPT のもっとも得意とする仕事と言ってもいいくらいです。

ましてやただ原稿を読んで進行するだけのMCやアナウンサーなどは、チャットGPTの仕事を人間が代わりにやっているようなものでしょう。

新聞記事も然りです。テレビの場合、映像を入れなければならないので撮影が必要ですが、紙媒体だと大概の記事はAIに取り替え可能だと言います。日本は、外国のような調査報道が少なく、記者クラブで発表されたものを記事に書く「発表ジャーナリズム」が主なので、AIに代わっても何ら差しさわりがないのです。

横須賀市役所のニュースに関連して、別の自治体の首長は社会保障などの「前払い」にチャットGPT を使えばいいのではないか、と言っていました。この「前払い」というのは、給付金を先に払うというような気前のいい話ではなくて、「門前払い」や「足切り」の意味で使った(誤用した)ようです。チャットGTPで「前払い」したあとに職員が対応すれば効率がいいと言っていましたので、要するに、生活保護の申請などにおける「水際作戦」のことを指しているのでしょう。申請の窓口に臨時採用した元警察官を配置したりして、申請者とのトラブルに備えている自治体もあるようですが、この首長の発言は、かつては「不快手当」を払っていたような窓口業務をAIに肩代わりさせて、機械的に手っ取り早く門前払いを行なえばいいという、役所の本音を吐露したものと言えるのかもしれません。

しかし、一度冷静になって考えた方がいいでしょう。たとえば、Googleの翻訳ソフトのあのお粗末さを見ると、チャットGTPだけがそんなに優れたものなのかという疑問を持たざるを得ないのです。

このブログでも書きましたが、アマゾンに問合せするのに、いつの間にかAIとやり取りをしなければならないシステムになっていて、そのトンチンカンぶりにイライラしたのはつい昨日のことです。それがある突然、「凄い」「凄い」「時代が変わる」と大騒ぎしはじめたのでした。でも、Googleの翻訳も、この数ヶ月の間で「凄い」と感嘆するように跳躍の進歩を遂げたという話は聞きません。ITの世界においては、そういった大騒ぎはよくあることなのです。

■表情のない言葉


最近はマッチングアプリを使って男女が出会い、結婚に至るケースも多くなっているという話がありますが、マッチングアプリもチャットGPTと似たシステムを応用したものでしょう。文字通り、双方が出した条件で合致した男女がピックアップされるのですが、そこには一番大事なのは人柄だというような考えはないのです。と言うか、アプリでも人柄は示されるのでしょうが、それは蓄積されたデータを数値化して導き出された(人工的な)人柄らしきものにすぎないのです。

人と人とのコミュニケーションにおいては、チャットGPTのような言葉だけでなく、たとえば身体言語のようなものも重要な役割を果たしていることは言うまでもありません。そもそも言葉は、あらかじめ与えられた意味や文法に基づいて処理(翻訳)された上で、表出されたものにすぎないのです。自分の意志や考えを伝えるのにもどかしい思いをするのはそのためです。

ましてやチャットGPTは、数学の理論に基づいたアルゴリズムによって、単語の用途と頻度をいったん数値化し、それをGoogleのオートコンプリート機能(予測変換)と同じような理論を使って文章を生成するもので、言葉の持つ曖昧さやゆらぎが最初から排除された二次使用の言葉でしかないのです。いくら5兆語におよぶ単語が日々学習しているからと言っても、言葉そのものは普段私たちが使っている言葉の足元にも及ばない貧しいものでしかありません。チャットGTPの言葉には表情と想像力が決定的に欠けているのです。それでは生身の人間同士のようなコミュニケーションが成り立つはずもないのです。似たものはできるかもしれませんが、あくまでそれはコピーです。問題は、コピーをホンモノと勘違いすることです。

それは、文体についても言えます。文体は言うなれば文章における表情のようなものです。でも、新聞記者は、不偏不党の建前のもと、極力文体にこだわらない、身体性を捨象した文章を書くように訓練されるのです。そんな文章がAIに代替されるのは当然でしょう。

これは既出ですが、2008年の『文芸春秋』7月号に、当時の『蟹工船』ブームについて、吉本隆明が、次のような文章を書いています。

ネットや携帯を使っていくらコミュニケーションをとったって、本物の言葉をつかまえたという実感が持てないんじゃないか。若い詩人や作家の作品を読んでも、それを感じます。その苦しさが、彼らを『蟹工船』に向かわせたのかもしれません。
 僕は言葉の本質について、こう考えます。言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉の問題であって、根幹は沈黙だよ、と。
 沈黙とは、内心の言葉を主体とし、自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分の言葉を発し、問いかけることが、まず根底にあるんです。
 友人同士でひっきりなしにメールで、いつまでも他愛ないおしゃべりを続けていても、言葉の根も幹も育ちません。それは貧しい木の先についた、貧しい葉っぱのようなものなのです。
(「蟹工船」と新貧困社会)


吉本隆明は、言葉の本質は沈黙だというのです。人間は言葉でものを考えるので、それは当たり前と言えば当たり前の話です。しかし、チャットGTPの言葉はそんな言葉とはまったく別世界のものです。そもそもチャットGTPは、言葉の本質は沈黙だというような、そんな言い草はしゃらくさい、アホらしいというような思想の中から生まれたものと言っていいでしょう。しかも、それはアメリカで生まれたサービスです。日本語の持っている曖昧さは、日本語の豊穣さを表すものでもあるのですが、そんな文化とはまったく無縁なところから生まれたサービスにすぎないのです。

■効率は必ずしも効率ではない


前に言論の自由もTwitterという一私企業に担保されているにすぎないと書きましたが、それどころか、私たちの生活や人生に直結する事柄も、アメリカのIT企業に担保されているにすぎないのです。そういったディストピアの社会がまじかに迫っているのです。でも、「モーニングショー」のコメンテーターのように、多くの人たちは、新しいものを無定見に賛美し、チャットGPTが招来する第四次産業革命に乗り遅れる、時代に付いていけなくなるというような言説で思考停止しているだけです。

かつて、Googleは凄い、集合知で新しい民主主義が生まれる、セカンドライフは仮想資産で大化けする、ツイッターは新たな論壇になり新しいスタイルの社会運動を生み出す、などと言っていたような人間たちが、またぞろ、そんな古い考えに囚われていると時代に付いて行けないと脅迫するのです。

数年後にAIが人間の知能を凌駕するシンギュラリティ(Singularity)が訪れると予言するような若手の学者が、終末期医療の廃止や高齢者の集団自決を主張するのは偶然ではありません。彼らは、人々の悲しい表情や切ない表情を読み取ることを最初から排除している人間たちです。AIに思考を委ね、AIが言うことを代弁している、、、、、、にすぎないのです。

70歳になる知人は、年金だけでは生活できないので、仕事を探しているけど、履歴書を送っても面接すらさせてもらないと嘆いていました。既に20数社履歴書を送ったけど、断りの返事が来るだけだそうです。もちろん、正社員の仕事ではなくパートの仕事です。知人によれば、一般企業より社会福祉法人や公的機関の方が人を人と見ないところがありたちが悪いと言っていました。

そこにあるのも、上の知事が言う「前払い」が行われているからでしょう。私から見ると、知人は、健康だし頭脳明晰だし仕事もできるし性格もいいし、私のような偏向した思想も持っていません(笑)。パソコンのスキルも高いし、チャットGTPも肯定的です。でもそんなことより年齢条件が優先されるのです。

世の中は深刻な人手不足だと言われていますが、知人の話を聞いていると、どこが人手不足なんだと思ってしまいます。「モーニングショー」のコメンテーターや横須賀市長や自治体の首長が言う効率は、必ずしも効率ではないのです。

■人工知能におぞましいという感覚はない


少子化対策にしても、お金を配れば子どもを産むようになるというものではないでしょう。何度も言いますが、少子化には、資本主義の発展段階における家族の在り方や家族に対する考え方の変容が背景にあるのです。

また、人間というのはややこしいもので、生殖にはセックスの快楽も付随します。人と人が惹かれ合うのも、言葉では言い表せないフィーリングや身体的な快楽だってあるでしょう。

人間はシステムの効率だけでは捉えられない存在なのです。いつも言うように、1キロの坂道でも、車に乗って登るのと自分の足で息を切らして登るのとでは、その意味合いがまったく違ってきます。私たちの身体は、自分で思う以上に自分を作り出し自分を規定しているのです。私が私であるのはコギトだけではないのです。

もとより、AIは、(当たり前ですが)その身体を捉えることはできません。社会や資本や国家などの制度にとってどれだけ役に立つか、その条件に照らして私たちを数値化して”評価”するだけです。

政府が少子化で困ると言うのも、要するに、将来、税金を納める人間が減るから困るという話にすぎません。だったら、終末期医療の廃止や高齢者の集団自決と同じ発想で、国家が精液を集めて人工授精をすればいいのです。そして、家畜のように国家で養育するか、アプリで希望する夫婦に、マイクロチップで納税者番号を埋め込んだ子どもを配ればいいのです。人工知能が導き出すのはそういう考え方です。人工知能には、おぞましいという感情はないのです。


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