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■ローンオフェンダー
15日に和歌山市の漁港で、衆議院の補欠選挙の応援演説に訪れた岸田首相に爆発物が投げ込まれた事件について、警察は「ローンオフェンダー(単独の攻撃者)」と呼んでいます。少し前までは、この手の事件は「ローンウルフ」と呼ばれていました。警察はどうしてこのように言い方にこだわるんだろうと思いました。
今回の事件について、東京新聞は、次のようなテロ対策の専門家のコメントを紹介していました。
東京新聞 TOKYO Web
単独の攻撃者「ローンオフェンダー」 事前の探知は難しく 岸田首相襲撃事件 再発防止へできることは?
「自分で計画し、準備をして犯行を実行するのがローンオフェンダー。探知することは難しく、実行されてから気付くケースが多い」と指摘する。「インターネット上で犯行につながるような書き込みなどを丹念にリサーチするしかないが、過去の事件でもすべての犯人が事前に書き込みをしているわけではない」
■テロの下地
実行犯の24歳の青年は、被選挙権を25歳以上とするのは憲法違反だとして国を提訴していたという話がありますが、それを総理大臣を狙ったテロの動機とするには、やはり無理があるような気がします。「ローンオフェンダー」というのは、政治が見えない政治テロのことをそう呼ぶのかもしれないと思ったりしました。
都心部の大規模な駅前再開発や、地方まで広がりつつあるタワーマンションの建設などを見ると信じられないかもしれませんが、今の日本は国家として没落し、貨幣の価値も下がり、貧しくなる一方です。それにつれ、絶望的と言っていいような貧富の差が生まれています。
格差社会とテロのつながりは、別に意外なことではありません。自分の人生に絶望して「拡大自殺」に走るケースもありますが、さらに世の中に対する恨みの感情が増幅されれば、政治指導者を標的にするようになるのも理解できない話ではありません。
こういった事件が続けば、上の専門家の発言のように、ネットなどの監視も強まり、益々息苦しさを覚えるようになるでしょう。そうなれば、不満やストレスは溜って、逆にテロの下地は広がっていくのです。
■デモもストもない国
昨日、神宮外苑の再開発に伴う樹木の伐採に反対していた坂本龍一の意志を継いだ反対集会が、アジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)の後藤正文らミュージシャンも参加して行われたというニュースがありました。それに対して、ネットでは、「痛い」「ミュージシャンが政治的な主張するのは幻滅する」というような書き込みが多くありました。
前の記事で、言葉の本質は沈黙だ、という吉本隆明のような言い草をしゃらくさい、アホらしいというような文化(風潮)の中にチャットGTPのような言葉を受け入れる素地があると書きましたが、何だかそれと共通するものを感じました。水は常に低い方に流れるネットの身も蓋もないもの言いは、SNSによって、私たちの日常に浸透し根を下ろしたとも言えるのです。
フランスやイギリスなどを見てもわかるとおり、日本のようなデモもストもない国はめずらしいのです。デジタル監視国家の中国だって、民衆はときに市庁舎などに押しかけて抗議の声を上げたりしています。でも、日本では「痛い」などと言ってシニカルに見るだけです。日本の社会が声が上げづらい不自由な社会であるのはたしかですが、そうやってみずから閉塞感を招いている側面もあるような気がします。
■暴力の”真実”と山上徹也
そんな中でテロに走る人間たちは、空疎な言葉より1個の銃弾や爆弾の方が大きな力を持っている暴力の”真実”を知ったのです。その”真実”を覆い隠すために、「話せばわかる」民主主義があったのですが、それが擬制でしかないことも知ってしまったのです。ましてこれだけ戦争のきな臭さが身近になれば、暴力に対する心理的ハードルも低くなっていくでしょう。
ゴールデンウィークをまじかに控えた「景気のいい」ニュースのその裏で、社会の底辺に追いやられた者たちの絶望感が、暴発寸前の状態でマグマのように溜まっているのが目に見えるようです。
衆参の補選における各党の主張を見ても、政党がターゲットにしているのはもっぱら中間層です。どの政党も、中間層を厚くすると言い、中間層向けの耳障りのいい政策を掲げるばかりです。本来、政治が一番目を向けなければならない下層の人々は、片隅に追いやられ忘れられた存在になってしまった感じです。でも、今の議会や政党の仕組みではそうならざるを得ないとも言えるのです。
それにしても、山上徹也と今度の犯人はよく似てるなと思いました。私は、地べたに組み伏せられた際の表情など、山上徹也と二重写しに見えて仕方ありませんでした。今回の事件が安倍元首相殺害事件の模倣犯であるのは間違いないでしょう。ただ、あの冷静さ、逮捕されても黙秘を貫く意志の強さは、(顰蹙を買うかもしれませんが)まるでテロリストの鏡のように思いました。彼は、組織で訓練を受けたわけでも、何程かの政治思想を持っていたわけでもないのです。にもかかわらず、プロのテロリストのような心得を身に付けているのです。それは驚愕すべきことと言わねばなりません。
何度も言うように、右か左かではないのです。大事なのは上か下かです。でも、今の政治はその視点を持つことができません。
山上徹也についても、旧統一教会の側面だけが強調されていますが、彼がツイッターにネトウヨと見まごうような書き込みをしていたことを忘れてはならないでしょう。トランプを熱狂的に支持するラストベルト(錆びついた工業地帯)の白人労働者などもそうですが、右か左かなどに関係なく、虐げられた人々、既存の政治から置き去りにされた人々の、下からの叛乱がはじまっていると見ることができるように思います。ヨーロッパでの極右の台頭の背景にあるのも同じでしょう。
日本では政治的に組織されてないので(彼らを組織する急進党派が存在しないので)彼らの存在がなかなか見えにくい面はあります。だからこそ、「単独の攻撃者」による政治ならざる政治のテロが今後も続くのは間違いないように思います。言うまでもなく、その端緒を開いたのが山上徹也の事件と言えるのてす。
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