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(大船山)


■中野重治の歩調


中野重治の「村の家」を久しぶりに読みました。中野重治は、1924年東京帝国大学独文科に入学後、新人会(戦前の学生運動団体)に入会し、天皇制国家の弾圧下にあった日本共産党が指導するプロレタリア芸術運動に加わります。

そして、1931年、29歳のときに日本共産党に入党しますが、1932年、治安維持法違反で逮捕されるのでした。しかし、1934年、転向を申し出て保釈され、福井県の日本海に近い寒村にある実家に帰郷するのでした。

「村の家」は、その実体験に基づいて書かれた短編小説です。発表されたのは、昭和10年(1935年)5月です。

「村の家」は、筆を折って(小説を書くことをやめて)村で農業をやれと説得する父親に対して、転向による深い心の傷を抱えながらも(だからこそ)文学への復帰を決意する、主人公の葛藤と覚悟が私小説的な手法を用いて描かれているのでした。

天皇制国家のむき出しの暴力と命を賭して対峙する当時の共産党員にとって、転向は屈服以外の何物でもありません。今の時代では考えられませんが、みずからの存在意味をみずからで否定するような“人生の自殺”に等しいものです。でも、文学というのはそういうところから生まれるものです。

「村の家」は、リゴリスティックで党派的な転向概念から零れ落ちる、個別具体的で人間的な感情を描いているという点で、従来のプロレタリア文学とは一線を画していると言えるでしょう。

私は、ちくま文学全集の中野重治の巻に収められていた作品を読んだのですが、加藤典洋氏は「解説」の中で、中野重治の小説を次のようなキャッチ―な言葉で評していました。

一度、極端にうつむいたことのある人が、気をとり直し、そろそろと日なたの中を歩む。それが中野の歩調だ。


■父親からの手紙


実家では69歳の父親の孫蔵と62歳の母親のクマが農業を営んでいます。父親の孫蔵は、村では、口喧嘩ひとつもしたこともない温厚な性格で、寺の行事でも必ず会計係を申し付けられるような正直者で通っています。そして、「ながくあちこち小役人生活をして、地位も金も出来ないかわりには二人の息子を大学に入れた」のでした。

しかし、長男は大学を出て1年で亡くなります。そのときも、孫蔵は愚痴ひとつこぼさなかったそうです。娘も三人いましたが、嫁いでいた次女は子どもを出産したあと肺病(肺結核)が悪化し、子どもとともに亡くなります。しかも、次女の看病をしていた長女にまで肺病が移ってしまったのでした。それに加えて、次男が治安維持法違反で二度目の逮捕をされたのです。出所して帰郷した際も、3つの新聞社から記者が実家に取材に訪れたほどで、世間から見れば売国奴の“過激派”なのでした。

孫蔵は、「七十年ちかい生涯を顧みて、前半生の希望が後半生にきて順々にこわされていったこと、その崩壊が老年期 ー 老衰期にはいってテンポを高めたことを感じ」ていたのでした。

「村の家」は、夕餉の卓の父親と母親を次のように描写していました。

 分銅のとまった柱時計の下で、孫蔵、タマ、勉次、親子三人が晩めしを食っている。虫の糞のこびりついた電燈がぶらさがって、卓袱台の上の椀、茶碗、皿、杯、徳利などを照らしている。孫蔵は右足を左股へのせたあぐらで桑の木の飯椀でがぶがぶ口を鳴らしている。ときどき指を入れて歯にはさまったものを取りだす。大きな黄いろい歯が三十二枚そろっている。(略)
 タマは前かがみでどことなくこそこそと食っている。髪の毛をぶざまなひっつめにして、絣の前かけをして、坐ったとも立膝ともつかぬ恰好をしている。鼻汁はなをすすったり、足を掻いたりする。肩を落としている。小さい三角の眼が臆病そうに隠れて、そっ歯で、口を閉じるとおちょぼ口になる。上くちびると鼻とのあいだに縦皺がよっている。からだ全体痩せていかにも貧相だ。


獄中にある勉次のもとへ孫蔵から手紙が来るのですが、その中には自分たちのことだけでなく、村の人たちの近況が綴られているのでした。たとえば、こんな文面です。

「一月九日の手紙を見ました。元気で厳寒を征服した事を悦びます。父母も無事に六十九歳と六十二歳の春を迎えました。雪は只今は平地三尺位の物でしょう。世間は少しも思うように行かぬものと見え、稲垣信之助さんが本月に入りてから、十歳を頭(かしら)に四人の子供を残して亡くなりました。高松定一さんは(高松の本家の養子)足掛三年中気で床にあります。小野山登さんは足掛三年越しに発狂しております。松本金吉さん方には昨年夏次郎という男子と十八になる妹が一ヶ月の間に肺病で亡じ、今は老夫婦だけになりました。隣家と北はよく働くから少々ずつ貯金が出来て行くようで喜んでいる。里窪の池内も一家こぞって努力するから大いに喜んでいる。
 堂本の子供達が少し頭が悪いので心配しております。俗に八丈というが六丈どころでないかと思う。なお寒さを大切に。」


私も、遠く離れて暮らすようになると、ときどき田舎の父親から手紙が来ましたが(大概はお金を無心して現金を送って来た際に同封されていた手紙でしたが)、父親の手紙もこんな感じで、読んでいて昔が思い出され胸が熱くなりました。

見覚えのある独特の文字で綴られた文章の間から、田舎での暮らしや親の心中が垣間見えて、ちょっと切ないようなしんみりとした気持になったことを覚えています。

■子どもに対する遠慮がちな理解


孫蔵は、家には5千円(今で言えば1千200万円くらい)の借金があり、土地を売っていくらか精算しようと思っても、田舎の土地は売れないのだと言います。また、逮捕された勉次の元へ面会に行ったときも、腕時計を質に入れ、さらに親戚からお金を借りて旅費を工面したと話すのでした。

二度目の逮捕だったので、「小塚原こづかっぱらの骨になって」(つまり、処刑されて)帰って来るものと覚悟していたのに、転向して保釈されたと連絡が来たので驚いて、取るものも取らず東京に向かったのだと言います。

このように、自分の息子がアカい思想に染まり天皇様に盾突いても、父親の孫蔵は意外なほど淡々としています。普通ならもっと感情的になって親子の縁を切るような話が出てもおかしくないのです。そこには、「ながい腰弁生活のうちに高くないながらおとなしい教養を取りいれて」「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」父親の姿があるのでした。

若い頃、仕事で農村のとある家に行った際、そこは夫婦二人で農業を営んでいる家でしたが、私にあれこれ質問したあと、自分の家の息子の話になったのです。息子は大学に行っているそうで、母親が「近所の同い年の息子さんはもう家の仕事(農業)をしながら農協に勤めて立派になっているけど、うちの息子はまだお金がかかって困っちょるんよ」と嘆いたのでした。

すると、父親が「バカたれ。それだけ本を読んで勉強することはお金に換えられんもんがあるんじゃ。それがわからんのか」と大声で叱責したのですが、それを見て私は、良い父親だなと思いました。

私は一応進学校と呼ばれる高校へ行ったのですが、現在のように必ずしもみんなが経済的に恵まれていたわけではないにもかかわらず、同級生の親たちも同じようなことを言っていました。また、長じて親の立場になった同級生たちも、やはり、同じようなことを言っています。それが子どもにとって、良いことかどうかとか、費用対効果がどうだったか(元を取ったか)とかに関係なく、みんな「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」のでした。

■吉本隆明の評価


中野重治に対しては、日本共産党との関係を取り上げて批判する向きもありますが、文学の評価はそんなものとはまったく関係ないのです。

中野重治の小説には、イデオロギーで類型化された人間観とは違った、人に対する温かい眼差しがあります。私は、中野重治の詩も好きなのですが、「雨の降る品川駅」や「歌」や「夜明け前のさよなら」のような抒情あふれる戦いの詩を生み出したのも、彼が持つ温かい眼差しゆえでしょう。そのナイーブな感性を考えるとき、田舎で実直につつましく懸命に生きながら、「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」父親の存在をぬきにすることはできないように思います。

吉本隆明は、戦前の転向を、「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換」(『転向論』)と規定し、その本質は「大衆からの孤立(感)」によるものだったと言っていましたが、そんな吉本はこの「村の家」を転向小説として高く評価しているのでした。吉本は、「『村の家』の勉次は、屈服することによって対決すべき真の敵を、たしかに、目の前に視ているのである」(『転向論』)と書いていました。

次のような孫蔵の話を胸に受け止めながら、勉次はそれでもなお、みずからの転向を引き受けた地点から、みずからの文学の再出発を決意するのでした。

「よう考えない。わが身を生かそうと思うたら筆を捨てるこっちゃ。‥‥里見なんかちゅう男は土方に行ってるっちゅうじゃないかして。あれは別じゃろが、いちばん堅いやり方じゃ。またまっとうな人の道なんじゃ。土方でも何でもやって、そのなかから書くもんが出てきたら、そのときにゃ書くもよかろう。それでやめたァおとっつぁんも言やせん。しかしわが身を生かそうと思うたら、とにかく五年八年とァ筆を断て。これやおとっつぁんの考えじゃ。おとっつぁんら学識ァないが、これやおとっつぁんだけじゃない。だれしも反対はあるまいと思う。七十年の経験から割り出いていうんじゃ。」


勉次は、自分の考えを論理的に説明できないもどかしさを覚えます。一方で、孫蔵の言葉を罠のように感じるのでした。しかし、そう思った自分を恥じるのでした。そして、「自分は破廉恥漢なのだろうかという、漠然とした、うつけた淋しさ」を感じながらも、「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います。」と答えるのでした。


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