DSC01550.jpg


■鶴見川の土手


昨日も昼前から散歩に出かけました。いつもの代わり映えのしないコースで、鶴見川の土手を新横浜まで歩いて、そのあとは駅ビルに寄って本を購入して環状2号線を通って帰って来ました。

登山で使う地図アプリでトラック(歩いた軌跡)を記録しましたが、歩いた距離は7キロ弱でした。

ただ、昨日はゴールデンウィークの真っ只中だったので、いつもと様子が違っていました。

土手に上がる前に通る遊歩道には小さな公園がいくつかあって、休日は子どもたちで賑わっているのですが、ひとつの公園は、兄妹とおぼしき小学校低学年くらいの子どもが二人いるだけでした。さらに、もうひとつの公園は、乳飲み子を抱えたお母さんが、小さな子どもが一人で砂遊びしているのを見守っているだけでした。

鶴見川の土手もいつもの休日に比べると、ジョギングや散歩をしている人たちの姿も少なく閑散としていました。

横浜労災病院の先の新横浜の外れまで歩いて、ベンチに座ってコンビニで買ったおにぎりを食べていたら、一人の女性がやって来て隣のベンチに座ったのでした。そして、同じようにおにぎりを食べはじめたのでした。さらに、そのあとはショルダーバックから文庫本を出してそれを読み始めていました。

■新横浜の駅ビルと消えゆく書店の運命


新横浜の街に戻ると、駅に向かって人の波が続いていました。見ると女性が多いのですが、年齢層が若者から中高年まで幅広く、それもどちらかと言えば地味な服装の女性たちが多いのでした。横浜アリーナは反対側だし、コンサートの帰りには見えません。

私は宗教団体の集まりでも行われたのかと思いました。駅に向かう人たちを見ると、勧誘のためにグループで個別訪問している信者たちと似ている感じがしないでもありません。

気になったのでスマホで調べたら、近くにスケート場があり、そこでアイスショーが行われていたことがわかりました。昔は新横浜プリンスホテルスケートセンターと呼ばれていたのですが、今はコーセー化粧品が命名権を獲得して、「KOSÉ新横浜スケートセンター」と呼ばれているそうです。私もフィギュアスケートの大会などで、新横浜プリンスホテルスケートセンターという名前は知っていましたが、どこにあるのか場所は知りませんでした。アイスショーのファンはあんな感じなんだ、と思いました。

相鉄線と東横線の乗り入れにより、相鉄線の西谷駅から東横線の新綱島駅まで新たに新横浜線が敷設され、それに伴って新横浜駅にも新しい地下鉄の駅ができたばかりです。ところが、駅ビルのオープンとともに15年間テナントとして、駅ビルの3階と4階のフロアを占めていた高島屋のフードセンターが2月1日に閉店したのでした。高島屋のフードセンターは、デパ地下のコンテンツを地上階で展開したものです。そのため、新横浜周辺に住んでいる人たちには衝撃を持って受け止められているのでした。しかも、次のテナントは未定とかで、未だにベニヤ板で囲いがされたままです。

アフターコロナで観光地が賑わっているとか言われていますが、新横浜のような観光資源の乏しい、どちらかと言えばビジネス街のような街は関係ないのです。もっとも観光地にしても、インバウンドが頼りなので、ロンリープラネットで紹介されて外国人観光客が訪れないと、その恩恵に浴することはできないのでした。それが現実なのです。

階下の新幹線の改札口は多くの乗客で賑わっていましたが、やはり、途中の階のフードセンターが撤退した影響は大きいようで、最上階にある書店も前に比べて人は少なく淋しい光景が広がっていました。ただその中で、場違いに女性たちが群がっている一角がありました。見るとジャニーズ云々の文字が見えました。どうやらジャニーズ事務所のタレントたちの写真集やブロマイドなど関連グッズを売っているようでした。

それで再びスマホで調べたら、案の定、5月3日から6日まで横浜アリーナでKAT-TUNのコンサートが行われていたのでした。

前は駅前にあった書店が、横浜アリーナで開催されるコンサートに合わせて、アイドルのグッズを売っていましたが、その書店もとっくに閉店してしまいました。それで今度は駅ビルの書店が扱っているようです。ちなみに、駅前にあった書店は、神奈川に本社があるチェーン店で、私は昔、関東一円の店に文房具を卸していたことがあります。

このブログでも書いたことがありますが、横浜アリーナでアイドルのコンサートが行われたときなどは、駅前の書店はグッズを買い求めるファンたちでごった返すほどでした。しかし、それでも採算が合わずに閉店したのです。

これはみなとみらいなどのビルに入っている書店も同じですが、とてもじゃないけど採算が取れているようには思えません。外から見ても、年々来店者が減っているのがわかります。個人経営の小さな書店だけでなく、大型のチェーン店もやがて消えていく運命にあるのは間違いないように思います。

書店で未知なる本と出合えるのは読書家の喜び、というのはよくわかる話ですが、しかし、書店のシビアな経営にとって、そんな話は気休めでしかないのです。

■物価高騰と愚民社会


帰りに夕飯のおかずを買うためにスーパーにも寄りましたが、スーパーも人がまばらでした。まだ夕方の早い時間だったのですが、早くもトンカツが値引きされていましたので、それを買って帰りました。

私は家ではもっぱら伊藤園の濃いお茶を飲んでいるのですが、最近は2リットル入りのペットボトルが170円とか180円とか行くたびに値段が上がっています。如何にも「お得だ」と言わんばかりに「2本で350円」とか貼り紙が出ていることがありますが、冷静になって考えれば全然安くないのでした。

今の物価高騰こそ”異次元”と呼ぶべきだと思いますが、日本人の習性で、いつの間にか喉元過ぎれば熱さを忘れて、慣れっこになった感じすらあります。

大風呂敷を広げれば、今の状況は、危機に瀕するグローバル資本主義が制御不能になり、かつて経験したことがない世界的な物価高騰を招いていると解釈することができるでしょう。

今の物価高騰のきっかけが、ウクライナ戦争に伴う資源(エネルギー)価格の高騰にあり、その背景に世界の多極化という覇権の移譲が伏在していることを考えれば、アメリカが中国の台頭を牽制し、どう中国の脅威を喧伝しようとも、この流れを止めることはできないように思います。グローバルサウスと呼ばれる第三世界の国々が、アメリカの支配から脱して中国に乗り移ろうとしているのも当然なのです。

一方で、対米従属を国是とするこの国の政権の腰巾着ぶりを見ると、グローバル資本主義の危機に連動した私たちの生活が、これからもっと苦難を強いられるのは避けられない気がします。革命のDNAがない日本では、みずからの自由を国家に差し出して、さらに盲目的に国家に頼るのがオチですが、でもそれは、地獄への案内人に手を差し出すことでしかないのです。平均年収や最低賃金や相対的貧困率など、私たちの生活に関連する指標を見ても、既に日本はOECDの中で下位に位置するようになっています。それだけグローバル資本主義の危機によって、私たちの生活が圧迫されているのです。にもかかわらず、肝心な国民にはその危機感があまりに希薄です。

それどころか、中身は単なるバラマキ(あとで税金で回収)でしかない異次元の少子化対策なるものが打ち出されると、「ラッキー! これで住宅ローンの支払いが楽になる」と言わんばかりに、内閣の支持率が急上昇する始末です。そんな一片の留保もない動物的な反応を見ると、私は、福島第一原発の事故のあと、大塚英志と宮台真司が出した『愚民社会』(太田出版)という本のタイトルを思い出さざるを得ないのでした。

子どもをめぐる問題を貧困問題(上か下かの問題)として捉える視点がない与野党も含めた今の政治は、この格差社会において政治の責任を放棄し、完全に当事者能力を失っているとしか思えませんが、そういった声もまったく聞かれません。これでは、政治家たちは、大衆なんてチョロいと高笑いして、危機感もなく国会でうたた寝をするだけでしょう。

エマニュエル・トッドではないですが、現在は大衆社会の閾値を超えるような高学歴の社会になったのです。だからこそ、愚民批判は、ためらうことなく、もっと苛烈に行われるべきだと思います。中野重治の『村の家』のような、インテリゲンチャと大衆という区分けはとっくになくなったのです。もうインテリゲンチャも大衆もいないのです。

「それ、あなたの意見ですよね」という”ひろゆき語”だけでなく、「上から目線」という言い方や、YouTubeでアンチに対して「だったら見なければいい」というような身も蓋もない言い方がネットを中心に流通していますが、要するに、そうやって思考停止する自分に開き直ることが当たり前になっているのです。「上から目線」という言い方に対しては、逆に何様なんだ?と言いたくなりますが、昔だったら、そんな言い方は、とても恥ずかしくて口に出して言えませんでした。でも、今は恥ずかしいという感覚はなく、むしろ”論破”したつもりになっているのです。そういったネット特有の夜郎自大について、「孤立」しているからだという見方がありますが、私は、必ずしも「孤立」しているのではないように思います。ネットの時代になり、同類項の人間たちが可視化されたことで、恥ずかしい言語を共有する仲間トライブができたのです。そして、その中でみずからを合理化できるようになったのです。

ひろゆきにしても、どう見ても”痛いおっさん”にしか見えません。ひと昔前なら嘲笑の対象だったでしょう。でも、彼は「論破王」などと言われて持て囃され、社会問題についてコメントまでするようになったのです。文字通り愚民社会のスターになったのでした。

メディアは言わずもがなですが、左派リベラル界隈の言説にしても、まったく現実をこすらないような空疎な(屁のような)言葉ばかりです。どうしてこすらないのかと言えば、愚民批判のような”闘技”を避けているからです。シャンタル・ムフの言葉を借りれば、今こそ(カール・シュミットが言う)「友敵関係」を明確にした”闘技”の政治、つまり、感情をゆさぶるようなラジカルな政治が求められているのだと言いたいのです。

政治家たちは、勝手に高笑いしてうたた寝をしているのではないのです。愚民社会がそうさせているのです。


関連記事:
理念神話の解体
『愚民社会』
新横浜
2023.05.05 Fri l 横浜 l top ▲