谷戸
(歩いたルート) ※クリックして拡大画像してください


■谷戸


先週の土曜日(5月6日)に同じところを散歩したのですが、谷戸やとと呼ばれる地形のことが気になったので、昨日、同じ場所を再び歩きました。

谷戸というのは、主に静岡以東の呼び方だそうです。私もこちらに来て谷戸という呼び方を初めて知りました。

横浜は谷戸が多く、横浜市のサイトでも「谷戸のまち横浜」というページがあるくらいです。それによれば、次のように説明されています。

 「谷戸」とは、丘陵大地の雨水や湧水等の浸食による開析谷を指し、三方(両側、後背)に丘陵台地部、樹林地を抱え、湿地、湧水、水路、水田等の農耕地、ため池などを構成要素に形成される地形のことです。
 「谷戸」という語源を辿ると、次のように言われています。
「静岡以東、主に関東に分布する東言葉で、古い時代に、主として稲作をしていた処ところの小地名である。だから山中には無いし、広い平坦地にも殆どない。その平坦地から山合いにはいりこんだ土地の名である。」
(谷戸のまち横浜)


開析谷かいせきこくと言うのは、私たちが普段イメージするような急峻な谷ではなく、どちらかと言えば、台地、あるいは登山で言うコル(鞍部)を広くしたもの、というようなイメージの方が近いかもしれません。

サイトにも書いていますが、横浜には谷戸が付いた地名が多く、昨日歩いた環状2号線沿いにも、「表谷戸」と「仲谷戸」というバス停があります。

ちなみに、九州では谷戸のことをさこと呼ぶみたいです。そう言えば、私の田舎にも「芋の迫」や「下迫しもざこ」という地名がありました。

住所で言えば、港北区師岡と鶴見区獅子ヶ谷の境界にあたる一帯です。私が住んでいるところから南に歩いて綱島街道に出ると、正面の丘の上にマンションや住宅が立ち並んでいるのを見渡すことができます。また、綱島街道沿いにある区役所の前の大きな交差点では、磯子区から鶴見区までの25キロ近くを結ぶ環状2号線が、綱島街道と交差して丘の上に向けて坂を上っているのでした。

私は、丘の上の住宅群がずっと気になっていました。それで、先週は環状2号線を通ってトレッサの横から迂回して行ったのですが、昨日は綱島街道から脇道に入り、直接上ろうと思いました。

前にホームセンターがあった場所にマンションが建設中で、その囲いの横にある狭い路地を進み、いったん裏の車道に出て、さらに住宅の横にある路地を奥に進むと丘の下に突き当り、そこに鉄の手すりが設置された石段がありました。石段を見上げていると、上からちょうど中年の男性が下りてきたのでした。

「すいません。これを上って行くと上の道に出るのですか?」
「そうですよ。尾根に出ますよ」

「尾根」と言われて思わず苦笑しそうになりました。昔の地形ではそうかもしれませんが、しかし、今は住宅地として開発され、崖の上にはマンションのコンクリートの建物が聳えているのでした。

石段を上って行くと、マンションの直下に樹木に囲まれた祠がありました。見ると、「大豆戸不動尊」という小さな柱がありました。崖の下から新横浜にかけての一帯は大豆戸おおまめどという町名です。昔は、丘の上に登り、さらに尾根を通って山の反対側の鶴見に行ったり、あるいはこの地域の守護神である師岡熊野神社に参拝したのでしょう。奥多摩の登山道などと同じように、そのためにショートカットする道だったのでしょう。

丘の上に登り、マンションの横を通りぬけると、先週歩いた見覚えのある道に出ました。地図で言えば、西から東の方へ上った格好になります。

見ると、台地の両端にはこんもりと木が茂った小山があり、典型的な谷戸の風景が広がっています。恐らく私が上って来た側にも昔は小山があったのだろうと思いますが、今は切り崩されて住宅地になっているのでした。

そこから斜度の一部が50度を超すような急坂を下りて、台地の西側にある横浜市指定有形文化財の「旧横溝家住宅」という古民家をめざすことにしました。

道沿いには鉄塔が建っていました。昭和の頃までは畑や田んぼが広がる田園地帯だったそうですが、今は台地の端は住宅地になっていて、中心部の畑や田んぼが広がっていた一帯は、建設会社の資材置き場や車庫、あるいはトタン板で囲われた産廃施設のようなものに変わっていました。

台地の先にあるトレッサ横浜は、トヨタ自動車のグループ会社が運営する商業施設で、フルオープンしたのは2008年(平成20年)ですが、それまでは新車を一時保管するプール(置き場)だったそうです。

■旧横溝家住宅と獅子ヶ谷市民の森


旧横溝家は、昔の名主の家で、江戸後期から明治中期に建てられた古民家です。1987年(昭和62年)に横浜市に寄贈され、1989年(平成元年)から公開されているそうです。

旧横溝家は、昔の典型的な農家の建物で、私も懐かしい気持で見学しました。土間のことを「にわ」と呼んだというのも、九州と同じでした。残された本棚の中の本を見ると、それまで住んでいた戸主は短歌を好んでいたことがわかります。また、旧横溝家の裏山には、小机城の支城の獅子ヶ谷城があったのではないかと言われているそうです。

台地の両端に残っている小山は、「獅子ヶ谷市民の森」として保存されていて、ハイキングコースになっており、旧横溝家を見たあとは鶴見区の方にある市民の森の一部を歩きました。

余談ですが、台地の上に家を買った人たちはどうやって通勤しているんだろうと思いました。環状2号線沿いには、鶴見駅や綱島駅や菊名駅や新横浜駅に行くバスが通っていますが、それでも駅まではかなりの時間を要します。歩くとなると時間がかかる上に急な坂道を上ったり下りたりしなければならなりません。途中、下まで買い物に行って帰宅中とおぼしき人たちに遭遇しましたが、皆さん、それこそ登山のように前かがみになって息を整えながらゆっくりゆっくりと歩いているのでした。

ただ、横浜はこういった駅から離れた”不便なところ”は多く、むしろそれが当たり前みたいな感じさえあります。環状2号線沿いの住宅などは、法面に専用の階段が作られているような崖の上の家も多いのでした。

しかも意外だったのは、谷戸の台地の端に、少なくない数のアパートが建っていることでした。通勤通学するのにさぞや不便だろうと思いますが、住人たちは車を所有しているのかもしれません。でなけばとてもじゃないけど、生活できないように思いました。ただ、このブログにも書いたことがありますが、私自身は、運動会のときにひっそりと静まり返った校舎の裏に行ったり、家の裏山で一人で遊ぶのが好きだったし、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが牧場の裏の丘の上から、遠くに見える町の灯りを眺めながら物思いに耽る冒頭のシーンに自分を重ねるような子どもだったので、そういった表の喧騒と隔絶されたような場所はもともと嫌いではないのです。

獅子ヶ谷市民の森は、ハイキングと言うにはちょっと短い距離ですが、昔の自然が残されていて、山歩きのプチ体験ができるようになっていました。

帰りは、先週と逆コースの環状2号線を歩いて帰りました。

吉行淳之介に『街角の煙草屋までの旅』というエッセイ集がありましたが、これも僅か数時間の丘の上までの旅だったように思いました。

距離は8キロ弱、歩数は13000歩でした。


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

DSC02932.jpg
マンション建設現場の囲いでおおわれた路地を進む

DSC02934.jpg
階段を上る

DSC02939.jpg
大豆戸不動尊

DSC02943.jpg
同上

DSC02946.jpg
台地の上からの眺望

DSC02954.jpg
急坂

DSC02971.jpg
鉄塔

DSC02966.jpg
鶴見大学師岡グランド

DSC03001.jpg
旧横溝屋敷

DSC03006.jpg
1847年(弘化4年)に建てられた長屋門

DSC03008.jpg
母屋

DSC02984_202305100910491f8.jpg
蔵の中に展示されている農具

DSC02988.jpg
同上

DSC03015.jpg
母屋の中の様子

DSC03017.jpg
土間(当時は「にわ」と言っていた)

DSC03027.jpg
台所(九州ではかまどのことを「おくど」と言っていた)

DSC03040.jpg
文書蔵(耐火性のある造りになっていて、大事な書き物などを保管していた)

DSC03047.jpg

DSC03052.jpg

DSC03055.jpg

DSC03066.jpg

DSC03083.jpg
内側から見る長屋門

DSC03085.jpg
右が農具が展示されている蔵

DSC03100.jpg

DSC03114_20230510091911ca0.jpg
西谷広場から登る

DSC03126.jpg
西谷広場

DSC03143.jpg

DSC03148.jpg
上からの眺望

DSC03152.jpg

DSC03160.jpg
ピンクテープもある

DSC03165.jpg

DSC03166.jpg
下谷広場に下りる

DSC03170.jpg

DSC03192.jpg

DSC03203.jpg
2023.05.10 Wed l 横浜 l top ▲