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■年上の知人


昔、仕事で知り合いだった年上の人と久しぶりに会いました。その人は、自分の仕事をやめて、以後10年以上、とある公益法人で嘱託職員として働いていたそうです。

しかし、1年前の70歳になる直前に、足を痛めて退職。この1年間は年金と貯金を切り崩して暮らしていたのだとか。

嘱託職員と言っても、ほぼ正職員と同じような仕事をしていたので、それなりの収入もあり、それに加えて65歳から年金を貰っていたので、毎月貯金ができるほどの余裕はあったそうです。

ところが、数ヶ月休んで足もよくなったので、再び働こうと思ったら、年齢制限にひっかかりどこも雇ってくれず困っていると言っていました。もちろん、探しているのはアルバイトです。既に30社近く履歴書を送ったけど、いづれも面接さえ至らず断りの手紙が送られてくるだけで、さすがに滅入っていると言っていました。

働きたいのは、生活のためだけでないとも言っていました。この1年間、何もしないで過ごしていると、見るからに体力も衰えて急激に老けていく自分を感じ、危機感を抱くようになったそうです。

■高齢者講習


70歳を越えると、運転免許証の更新の際は高齢者講習が義務付けられるそうで、そのために6450円の受講料を払って自動車学校で講習を受けなければならないのだそうです。何だか「あなたたち高齢者は社会のお荷物なのですよ」と言われているような気がして、よけい自分が老けたような気持になると言っていました。

高齢者の交通事故が増えたので、(建前上は)その対策として講習が義務付けられたのでしょうが、6450円とは法外な気がします。講習を受けないと免許証の更新はできないのです。更新の手数料を含めると、70歳以上の高齢者たちは、免許証を更新するのに1万円近くの出費を余儀なくされるのです。

聞けば、通常、更新の際に行われる講習とそんなに変わらず、要するに免許証の返上を勧めるような内容だったと言っていました。また、自動車学校のコースを使った実車によるテストも行なわれたけど、認知度や運動神経などを調べるのなら、もっと簡便な方法があるのではないかと思ったそうです。

警備会社と同じように、自動車学校の校長の多くも元警察署長などの天下りです。言うなれば、警察にとっては子飼いの業界なのです。少子高齢化で自動車学校も生徒集めに苦労していますので、警察庁が自動車学校に新たな“収益源”を与えた、という側面もあるような気がしないでもありません。

もちろん、高齢者の交通事故対策が必要なのはわかりますが、このように新しい施策が行われると、まるで火事場泥棒のように役人たちは自分たちの権益の拡大をはかるのでした。文字通り、地頭は転んでもただでは起きないのです。

70歳からの高齢者講習の義務化は去年から始まったばかりだそうです。その審議の過程で、講習の問題点を野党が指摘したという話は聞いたことがありません。メディアも、高齢者の交通事故をそら見たことかと言わんばかりに大々的に報じるだけで、問題点を指摘する声はありませんでした。

講習の実効性どころか、爪に火を点すようにして、乏しい年金で暮らしている高齢者を食いものにするような制度と言ってもいいでしょう。

資本主義の本質はぼったくりにあり、今の異次元の物価高も資源価格の高騰を奇貨にした資本のぼったくり以外の何物でもありませんが、これは(決して冗談で言っているのではなく)高齢化社会を奇貨にしたぼったくりとも言えます。”シルバー民主主義”で高齢者は優遇されていると言われますが、このどこに”シルバー民主主義”があるんだ、と言いたくなります。今の日本では、高齢者をおおう貧困が明日の自分の姿だという最低限の認識さえないのです。

■労働力不足のからくり


年上の知人は、仕事を探すのも免許証を更新するのも、「お前は年寄りなんだ」と言われているような気がして、否が応でも社会から退場させられているような気がすると言っていました。

彼も1年前まではバリバリに働いていたのです。今の70歳は昔の70歳とは違うとか、これからは70歳になっても働かなければならないとか言われますが、現実は全然そうなってないのです。

私の父親は自営業だったので、70歳でも現役でバリバリ働いていました。もちろん、車も運転していました。そして、現役のまま病気で亡くなりました。祖父もそうでした。昔は自営業の割合が高かったので、高齢になっても普通に仕事をしていた人が多くいました。

でも、今はサラリーマンの定年退職を基準にするのが主流になっているので、65歳を過ぎると高齢者と言われて、労働の現場から排除され、さまざまな制約を受けるようになるのです。だからと言って、豊かな老後を過ごせるように年金制度が充実しているわけではありません。むしろ逆です。フランスでは年金制度の改正に反対して、火炎瓶を使ったような過激な街頭闘争まで繰り広げられていますが、それでも日本の年金と比べると夢のような充実ぶりで、フランスと比べると日本はまるで奴隸の国に思えるくらいです。

日本が戦後経済発展をしたのは、ある意味で当然だったと言ってもいいでしょう。資本にとって、これほどコストの安い国はないのです。まるで資本が国家の上位概念であるかのように、社会保障は二の次にできるだけコストを安くして、高い国際競争力を持つように政治もバックアップして来たのです。にもかかわらず、高度成長を経てバブルが到来したのもつかの間で、その後は低下の一途を辿り、今やタイやフィリピンの観光客からも「日本は安い」と言われ、喜ばれるような国になってしまったのでした。そして、年金制度などの社会保障は、二の次になったまま放置されたのでした。その結果、今の格差社会が生まれたのです。にもかかわらず、高齢化社会だから年金が目減りするのは当然だ、というような論理が当たり前のようにまかり通っているのです。

消費税は社会保障のため、そのための目的税だとされていますが、実際は所得税や法人税と同じ一般財源に入れられ、それらといっしょにされて歳出に使われているのです。それでは、消費税が法人税減税の補填に使われているという批判が出て来てもおかしくないでしょう。実際に、消費税導入前の1988年度の国民年金(基礎年金)の保険料は、月額7700円でした。それが、消費税が10%になった2020年度は16610円になっているのです。もちろん、その分支給額が上がっているわけではありません。何度も言いますが、むしろ逆です。これでは何のための消費税かと言いたくなるでしょう。

少子高齢化で労働力不足が深刻だとか言われていますが、それは若くて賃金が安い若年労働力が不足しているという話にすぎず、中高年の失業者が職探しに苦労している現実は何ら変わらないのです。しかも、若くて賃金が安い若年労働力を補うために、発展途上国からの労働者にさらに門戸を広げようとしているのでした。

でも、彼らはあくまで低賃金の出稼ぎ労働者にすぎません。低賃金の外国人労働者の存在が、3Kの現場などにおいて、日本人の労働者の賃金が低く抑えられる要因になっているという指摘は以前からありました。しかし、問題はそれだけでないのです。中高年の労働者が労働市場から排除されるという、もうひとつの負の側面も生まれているのでした。

左派リベラルなどは、「万国の労働者団結せよ」というようなインターナショナリズムや民族排外主義に反対する立場から、門戸開放にはもろ手を挙げて賛成していますが、でも、そこにあるのは、資本の論理と国家を食いものにする役人の論理だけです。資本や国家は、「万国の労働者団結せよ」というインターナショナリズムで門戸開放するわけではないのです。

年上の知人のように、年金に頼るのではなくバリバリ働いて充実した人生を送りたいと思っても、社会がそれを許さないのです。「あなたは年寄りだから社会のお荷物にならないようにしなさい」と言われて、「お荷物扱い」されるのです。

私は、年上の知人の話を聞きながら、何が異次元の少子化対策だ、何が外国人労働者の門戸開放だ、と思いました。誰もその陰にある部分を見ようとしないのです。


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