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■幼稚と暴力
ジャニー喜多川氏や市川猿之助氏の性加害を考える上で、私は、北原みのり氏がアエラドットに書いていた下記の記事を興味を持って読みました。
AERAdot.
幼稚と暴力がガラパゴス化したジャパン 「日本の今」を記録したドイツ人女性ジャーナリストが混乱した
北原氏は、ドイツ人女性ジャーナリストたちが、日本に1ヶ月滞在して取材した際に同行したのだそうです。
ドイツ人ジャーナリストは、歌舞伎町の様子をカメラに収めながら、「男性が支配的な国で、なぜこんなに子供っぽいものが多いのか?」と疑問を抱くのでした。
日本は美しく、日本人は優しく、日本は安全で、どの町にも24時間営業のコンビニがあり、電車が時刻通りにくる便利な国……という良いイメージがあるが、フェミニストの視点でのぞいてみると、まったく違う顔が見えてくる。なかでもドイツ人ジャーナリストを混乱させたのは、「日本のかわいさ」と「暴力性」だった。
街中のポスターや、アダルトショップで販売されている幼稚なパッケージを前に何度もそう聞かれ、「幼稚」と「暴力」はこの国では1本の線でつながっているのだと気が付かされる。ここは成熟を求められない国。成人女性が高く幼い声で幼い仕草で幼い言葉で「自分を小さく見せる」ことに全力をかける社会。成人男性の性欲はありとあらゆる方法でエンタメ化され、「ほしいものは手に入れられる」と幼稚で尊大な自己肯定感を膨らませ続けられる社会。
ホストクラブは日本にしかない“風俗”だそうですが、ホストたちは、「『貧しい家庭で育ち、学歴もなく、社会的な信頼もないオレ』が、一気に『勝ち組』になれるシステム」だとして、ホストクラブを男の夢として語るのでした。
■こどおじ
週刊誌の記事がホントなら、市川猿之助氏は、両親が老々介護をしているのを尻目に、スタッフをひき連れてホテルで乱痴気パーティを開き、その席でまるで絶対君主のように有無を言わせずに性的行為を強要していたのです。
そして、彼は、そんな暴力的で子どもじみたふるまいをしながら、週刊誌に「あることないこと書かれた」のでもう「生きる意味がない」と言い、両親に「死んで生まれ変わろう」と提案するのでした。何だか甘やかされて育てられた一人息子のボンボンの、どうしようもない(目を覆いたくなるような)幼稚さが露呈されているような気がしてなりません。
そんな市川猿之助氏は、澤瀉屋の二枚看板の一つである「猿之助」の名跡を継ぎ、これからの歌舞伎界を担うホープとして将来を嘱望されていたのでした。もし今回の事件がなかったら、そのうち人間国宝の候補になったかもしれません。あと10年もすれば紫綬褒章くらいは授与されたでしょう。でも、一皮むけばこんな「こどおじ」みたいな人物だったのです。
■大人と成熟
ジャニー喜多川氏も然りで、まわりの人間たちは、ジャニー氏がやっていることが「ヤバい」というのはわかっていたはずです。しかし、ジャニー氏もまた絶対君主だったので、みんな「見て見ぬふり」をしてきたのでした。
ジャニー氏の被害に遭った少年たちも、芸能界にデビューしてアイドルとしてチヤホヤされるために、ジャニー氏の欲望を受け入れるしかなかったのでしょう。しかも、年端もいかない少年であるがゆえに、グルーミングによって手なずけられたのでした。「ジャニーさんは父親みたいな存在」、そう言うと、メディアはそんな話でないことはわかっていても、それを美談仕立てにして誤魔化して来たのでした。
そして、少年たちは長じると、ニュース番組のキャスターを務めるまでになったのでした。彼らを起用したテレビ局も、ジャニー氏がやって来た「ヤバい」ことを知らなったはずがないのです。ジャニー氏の寵愛を受けたその中のひとりは、番組の中で、真相を語ることなく、ジャニーズ事務所は名前を変えて再出発すればいいと、どこかのカルト宗教みたいなことを言ったのでした。
記事のタイトルの「幼稚と暴力がガラパゴス化したジャパン」とは言い得て妙で、これは芸能界だけの話ではないし、セクハラだけの話でもありません。サラリーマンたちだって、似たような経験をしているはずです。みんな同じように、家族のためとか、生活のためとか、将来の年金のためとかいった口実のもとに、「ヤバい」ことを「見て見ぬふり」して来たのです。私も上司からよく「大人になれ」と言われましたが、会社では「見て見ぬふり」をすることが「大人になる」ことだったのです。
北原氏は、日本を「成熟を求められない国」と書いていましたが、日本の社会では、「成熟する」というのは「大人になる」と同義語なのです。つまり、「大人」や「成熟」という言葉は、現実を肯定し(「見て見ぬふり」をして)自己を合理化する意味で使われているのでした。そういった日本語の多義性を利用した言葉の詐術も、日本的な保守思想の特徴と言えるものです。それは文学も然りで、江藤淳の「成熟」も「こどおじ」のそれでしかなかったのです。
保守派からLGBT法は日本の伝統にそぐわないという反対意見がありますが、その伝統こそがジャニー喜多川氏や市川猿之助氏のような存在を生んだのです。国家に庇護された伝統と人気が彼らの性加害の隠れ蓑になったのです。私たちは、LGBT法とは別に、伝統こそ疑わなければならないのです。
■話のすり替え
ところが、ここに来てワイドショーなどを中心に、市川猿之助氏の才能や人柄をヨイショする報道が目立って増えており、中には復帰することが前提になっているような報道さえ出始めています。さすがに、それは違うだろうと言わざるを得ません。何だか再び(性懲りもなく)「見て見ぬふり」が始まっているような気がしてなりません。
(本人の供述として報道されていることを前提に言えば)自殺未遂に関しても、不可解な点がいくつもあるのです。たとえば、自殺したと言っても、家族三人が枕を並べて一緒に心中したわけではなく、両親と猿之助氏との間でかなりのタイムラグが生じていると推測されるのです。タイムラグの間に、猿之助氏は、向精神薬を飲んで昏睡状態に陥った(と思われる)両親の顔にビニール袋を被せて、呼吸しているかどうかを確認したと供述しており、しかもそのあと、ご丁寧に向精神薬の薬包紙やビニール袋を処分しているのでした。さらに、座長を務める公演を体調が悪いので休むとわざわざ電話しているのでした。その上、自宅の鍵を開けたままにしているのです。
もう一つ忘れてはならないのは、市川猿之助氏が、歌舞伎の”家元制度”を背景にして、日常的にパワハラやセクハラ(性加害)を繰り返していたということです。その性加害はジャニー喜多川氏と同様に、同性に対するのだったのです。そのため、彼の性的指向についても言及せざるを得ないのです。
にもかかわらず、テレビのワイドショーは、性的指向にはひと言も触れずに、伝統ある歌舞伎役者としての側面ばかりを強調しているのでした。それは、どう見ても話のすり替えのように思えてなりません。自殺未遂に関しても、市川猿之助氏は澤瀉屋の後継者としての重圧を背負った犠牲者みたいな言い方がされていますが、目を向けるべきはそっちではないでしょう。
もしこれが国家に庇護された歌舞伎界のスターでなくて”一般人”だったら、それこそ疑問点をあることないことほじくり返して、自殺を偽装した殺人事件のように報じるはずなのです。