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■生麦事件


用事があって、鶴見区の生麦(なまむぎ)に行きました。生麦と言えば、学校の歴史の授業で習った生麦事件があったところです。

昔、仕事関係の知り合いに生麦在住の人がいましたが、最初に会ったとき、「ああ、あの生麦事件があったところですか?」と訊いたら、「住所を言うと必ずそう言われる」と苦笑いしていました。

駅の近くに生麦事件の石碑があるそうなので探したのですが、見つけることができませんでした。

私は、初めて生麦に行きましたが、想像していたよりうらびれた感じの街で、正直言ってびっくりしました。横浜駅から京急(京浜急行)線に乗り換えて生麦駅で降りたのですが、駅前には何もないのです。駅のすぐ横に”駅前商店街”がありましたが、おせいじにも商店街として充分機能しているようには見えませんでした。

ただ、ネットで生麦を検索すると、駅の近くにスーパーがあって便利だと書いているのです。それで、地元の人に訊いたら、2019年だかに閉店したということでした。

でも、ネットでは、電車で横浜や鶴見や川崎には10分もかからずに行けるので「買い物にも便利」「住み心地がいい」などという記事ばかりでした。私は、「全然便利じゃないだろ」とツッコミを入れたくなりました。それらは不動産会社のバイアスがかかった記事なのでしょう。Googleで上位に出て来るのは、そんなものばかりです。

駅前と言っても、車が離合するのも苦労するような細い路地があるだけでした。ただ、駅から路地を5分も歩けば国道15号線、つまり、旧東海道でもある第一京浜に出ることができます。生麦にはキリンビールの工場があるそうですが、工場があるのは国道を渡った先の埋め立て地です。また、国道に出ると、先の方に大黒パーキングに至る首都高横羽線のジャンクションのループ橋を見ることができました。かつて横浜の暴走族の聖地だった大黒パーキングや大黒埠頭にも近いのでした。

■京浜工業地帯の駅


ところが、こんなひなびた生麦駅ですが、一日の平均乗降客が2万5千897人(2022年)だそうで、それにもびっくりしました。私が、生麦駅に降りたのは午前10時すぎでしたが、人通りも少なく閑散としており、そんな面影は微塵もありませんでした。

つまり、生麦駅は、京浜工業地帯の中にあり、埋立地の工場などに通勤するための駅という性格が強いのでしょう。だから、乗降客が多いわりには駅周辺は殺風景なのかもしれません。

あとで知ったのですが、近くにはJR鶴見線の国道駅(無人駅)があるそうです。国道駅の「国道」は国道15号線のことですが、戦前からの高架の風景を残した国道駅は、昔の京浜工業地帯の通勤風景を偲ぶことができるレトロな駅として、鉄道ファンの間ではよく知られているのでした。生麦駅からだと歩いて行ける距離だそうで、前もって知っていれば行きたかったなと思いました。

生麦駅は、京急の各駅停車が停まるだけの駅ですが、京急と並行してJRの東海道本線や横須賀線や京浜東北線など8本の線路が走っているため、反対側(山側)に行くには長さが60メートルの跨線橋を渡らなけばなりません。駅の横に踏切があるのですが、歩行者は使用禁止だそうです。ウィキペディアによれば、車両も7~9時と14~19時は通行禁止になっているそうです。どおりで踏切に係員が立っていたわけです。2013年に88歳の老人が踏切を渡り切れずに電車に轢かれて亡くなったそうで、その事故をきっかけに駅と直結する跨線橋が設置されたということでした。

駅周辺には、牛丼店や定食屋やラーメン屋などのいわゆるチェーン店も一軒もありませんでした。ファミレスもサイゼリアが一軒あるだけでした。閉店したスーパーマーケットもチェーン店ではなく、地元の店だったそうです。チェーン店が進出してないということは、商業地としてのメリットがないと見做されているからでしょう。

約束の時間より早く着いたので喫茶店を探したのですが、もともと店自体がないので喫茶店などあろうはずがありません(ただ、帰りに山側に行ったら、昔ながらの喫茶店が一軒ありました)。喫茶店がなければ、公園のベンチで時間を潰そうと思ったのですが、公園も見当たりませんでした。

駅の海側は、駅と国道15号線の間の限られた土地しかないので、住宅地として発展する見込みがほどんどないのはよくわかります。一方、線路を越えた山側に行くと、町名が生麦ではなく「岸谷」に変わるのですが、町名どおり跨線橋から道路に下りると、すぐ丘になり、丘一帯が住宅地になっているのでした。ただ、通勤・通学のために生麦駅を利用するには、長い跨線橋を渡らなければならないし、車で15号線に出るにも大きく迂回しなければなりません。しかも、山側にも商店街らしい商店街はありませんので、日常の買物が不便であることには変わりがありません。

このように実際に現地に行くと、ネットで書かれていることとはかなりイメージが違っているのでした。それがGoogleの検索がevilなものになったと言われる所以なのでしょう。

■伊勢佐木町


用事を済ませたあと、横浜駅まで戻り、横浜駅からみなとみらい線で馬車道で降りて、伊勢佐木町で昼食を食べました。

伊勢佐木町は、去年の年末以来ですが、あらためて通りを歩いたら、コロナ前と比べて異変があることに気付きました。

前も書きましたが、コロナ禍の間、私は伊勢佐木町には一度も訪れていません。それだけにコロナ禍の前と後の違いが目に付くのでした。

有隣堂の近くにあった吉野家が撤退して買い取り屋になっていましたし、吉野家のはす向かいの富士そばも閉店していました。また、かつやもてんやもなくなっていたのです。

別にチェーン店を擁護するつもりはありませんが、しかし、彼らの冷徹なマーケティングは街の現状を知る上で参考になるのです。チェーン店に見放されたというのは、私もこのブログで散々書いていますが、伊勢佐木町の衰退がいよいよ来るところまで来たなという気がします。たしかに、平日の昼間に行くと、益々人通りが少なくなっており、淋しい光景が広がっていました。

コロナ前にあれほどいた南米系の外国人たちが見事なほど姿を消していました。金のネックレスやブレスレットをチラつかせながら、文字通り肩で風を切って歩いていた中国人の不良たちも、いなくなっていました。

こういった伊勢佐木町の衰退に象徴される横浜の現状が、前に書いた「横浜の不穏」のような発想につながっているのかもしれません。

関連記事:
横浜の不穏

■アジアの民衆は「お客様」


先日もタイに行った知り合いが、バンコクは東京と変わらないくらいの都会で、タイの活気に圧倒されたと言っていましたが、考えてみれば、中国をはじめアジアの国がどんどんキャッチアップして豊かになっているので、昔のように出稼ぎに来ることがなくなったということもあるのかもしれません。まして、こんなに円安になれば、同じ出稼ぎするにしても、ほかの割りのいい国に行くでしょう。

埴谷雄高と吉本隆明の間で、いわゆる「コムデギャルソン論争」があったのは1984年でしたが、当時は日本人はエコノミック・アニマルと言われて、埴谷雄高が言うように、アジアの民衆を「ぼったくっていた」のです。日本は「日帝本国」で、アジアは「周縁」だったのです。

しかし、今の日本にとって、アジアの民衆は「お客様」です。彼らはいつの間にか「インバウンド」と呼ばれる観光客になり、彼らが落とすお金に、日本人が平身低頭して手を差し出すようになっているのでした。もはや日本は仰ぎ見るような国ではなくなったのです。

「日本はあこがれの国」というのは、日本人から「ぼったくろう」という(見えないところで舌を出している)ロシア人や韓国人のユーチューバーたちが言っているだけなのです。


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伊勢佐木モール
2023.06.24 Sat l 横浜 l top ▲