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■ある登山ユーチューバー


しばらく動画の投稿が途絶えていた30代半ばの登山系ユーチューバーがいたのですが、今年の初めにYouTubeの「コミュニティ」欄に文章をアップして、ユーチューバーとしての活動をやめると宣言していました。

理由は、大事な人が突然亡くなって、「登山もYoutubeもする気が起きなくなった」からだと書いていました。それで、就職活動を始めたのだそうです。

YouTubeをはじめて2年半くらいでしたが、その間60本以上の動画をアップしていました。全国各地の山を訪れて、実質的に専業ユーチューバーとしての活動をしていました。登山の初心者でしたが、御多分に漏れずあれよあれよという間にステップアップして、北アルプスの表銀座を縦走するまでになっていたのです。

しかし、再生回数の伸びから見ても、専業ユーチューバーとして一本立ちするには無理がある、という結論に達したとも書いていました。

それを読んで、別に親しい人間が亡くなったとか、そういうのではないのですが、私は、彼の気持がわかるような気がしたのでした。

■コロナ禍


「コロナ禍で変わった風景」というような記事も書きましたが、私自身も知らず知らずのうちに、コロナ禍によって心境に変化が生まれていたように思います。もしかしたら、それは、”トラウマ”のようなものかもしれません。

幸いにも私自身は感染することはありませんでしたが、しかし、新型コロナウイルスに翻弄された現実を、嫌になるくらい間近で見てきました。

もちろん、新型コロナウイルスは終息したわけではなく、変異株による新たな感染の拡大も指摘されていますが、しかし、新型コロナウイルスによって、私たちは、身体だけでなく、精神面でも大きな影響を受けたことはたしかな気がします。あの何とも言えない陰鬱な気持。毎日が「葬式列車」(石原吉郎)のような、通勤電車の中に漂う重苦しい空気。次々と職場を去って行く人たち。もしかしたら、戦争もこんな感じなのかもしれないと思ったりしました。知らぬ間にまわりの状況がどんどん変化していく。足元の砂山が徐々に崩れていくような、そんな崩壊感覚がありました。

■リセットしたい


私自身も、このブログも含めて全てをリセットしたいという誘惑に駆られることがあります。自己顕示欲のようなものが鼻に付いて、ときにたまらない自己嫌悪に陥ることがあるのです。ただ、一方で、18年も続けてきたので、ここでやめるのは「もったいないな」という気持もあります。傍目ではそう見えないかもしれませんが、私自身の中では、このブログは“備忘録”のようなものでもあるのです。私は若い頃からずっと日記を書いて来ましたが、ブログを書くようになって日記をやめたのでした。

前も書きましたが、年を取ると、肉体的な面だけでなく、精神的な面でも“体力”がなくなっているのを痛感することが多く、矛盾とか羞恥心とか自己嫌悪とかいったものに耐えることがしんどくなっているのも事実です。

石原吉郎は、「一九五六年から一九五八年までのノートから」(構造社刊『日常への強制』所収)の中で、次のように書いていました。

 私は孤独という中心のまわりを、ただむなしくまわっているにすぎない。永久に孤独の中心へはいって行こうとはしないのだ。


〈生きることの困難さ〉とは、〈積極的に生きることの困難さ〉である。労苦や悲しみに押し流されている間は、この困難さへの認識はない。


最近は、こういった言葉がやけに心に染み入るのでした。

■近所の老人


近所のアパートに、70歳前後くらいの男性が住んでいるのですが、数年前からときどき道ですれ違うようになりました。仕事をしているらしく、ショルダーバッグを肩から下げて駅の方から帰って来たり、逆に駅の方に向かっている男性と、それこそ数ヶ月に一度くらいすれ違うことがありました。すれ違う時間が朝だったり夕方だったりするので、三交代か何かの仕事をしているのだろうと思いました。第二の人生で警備員の仕事をしているのではないか、と勝手に思ったりしていました。

ところが、最近、何故か頻繁に見かけるようになったのです。数ヶ月に一度どころか、一週間か十日に一度すれ違うようになったのでした。それも、駅に向かう道路だけでなく、近所のスーパーでもすれ違うようになったのでした。

しかも、不思議なのは、スーパーの店内より敷地内ですれ違うことが多く、それも何か買い物をしているわけではなく、いつも手ぶらなのでした。

ある日の夕方、アパートの前を通りかかったら、男性がドアをガチャガチャ言わせているのに気付きました。どうやら部屋のドアが開かないみたいです。そのとき、男性の部屋が一階の奥から二番目だということを知ったのですが、でも、傍から見れば、不審者に見えるでしょう。

それで、私は、「どうしたのですか?」とアパートの前から彼に声をかけたのでした。しかし、距離が離れているということもあって、何やらムミャムミャ言っていますがよく聞き取れません。何だか酔っぱらっているような感じに見えなくもありません。

もう一度声をかけると、「閉められた」と言っているのが聞こえました。それを聞いて、一人暮らしではなく奥さんがいて、中から部屋の鍵を閉められたのかと思いました。

男性は、ドアノブから手を離して私の方に身体を向けると、突然、「携帯電話を持っていますか?」と訊くのです。やはり酔っぱらったようなもの言いでした。

「はい、持っていますよ」
「すぐ繋がりますかね」
「ええっ?」

言っている意味がわからず、戸惑っていると、「どうも、すいません」と言って再びドアノブに鍵を差し込んでガチャガチャ言わせていました。

私は用事があったので、その場を立ち去ったのですが、駅に向かって歩きながら、あれは酔っぱらっているのではなく、脳梗塞か何か病気なのではないかと想像したりしました。

そして、昨日の昼間のことです。アパートの前の道路を歩いていると、前から男性がやって来たのでした。男性に会ったのは、二週間ぶりくらいでした。「こんにちは」と挨拶すると「あっ、こんにちは」を挨拶を返してきました。昨日は気温が30度近くも上がった暑い日でしたが、男性は雨具のような長袖のジャンパーを着ていました。頻繁に会うようになったのでわかったのですが、いつも同じ服装なのでした。

「暑いですね?」と言うと、「はあ、そうですね」と相槌を打っていました。滑舌は前よりましになっていましたが、やはり、いくらか聞き取りにくい感じがありました。そう言ったあと、男性の服装を見て、「しまった、皮肉に聞こえたかな」と思いました。

しかし、そんなことはお構いなしに、「こんなに暑かったら仕事に行くのも大変ですね?」と言うと、「ええ、まあ」と曖昧な返事をするのです。それで、さらに畳みかけるように(ホントは好奇心を抑えることができなかったからですが)、「どんな仕事をしているんですか?」と失礼な質問をしてみました。

すると、「働いてないんですよ」と言うのです。私は、思ってもみない返答に心の中で「えっ」と思いましたが、「そうですか。それはいいですね」とその場を取り繕うようなことを言って別れたのでした。

数ヶ月に一度道ですれ違っていた頃は、間違いなく働いていたような様子でしたので、もしかしたら、コロナ禍で辞めたのかもしれません。あるいは、病気で辞めざるを得なくなったのか。

私は、一つのことに関心を持つとずっと気になる性格なので、もう男性と会いたくないなと思いました。これ以上、男性のことをあれこれ想像をめぐらしていると(ホントはただ詮索しているだけですが)、気持がつらくなるような気がしたのでした。

他人は他人。他人のことに関心を持ってもどうなるわけではないし、いいことはない。俺は人間嫌いのはずじゃないか。そう自分に言い聞かせているもうひとりの自分がいました。


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2023.06.25 Sun l 日常・その他 l top ▲