
(山下公園)
■政治なんてものはない
前の記事からの続きになりますが、年金だけでは生活できないのでアルバイトを探しているけど、アルバイト探しにも苦労しているという70歳の知り合いのせつない話を聞くにつけ、私は〈政治〉というものについて考えさせられました。そして、吉本隆明の「政治なんてものはない」(『重層的な非決定へ』所収)という言葉を思い出したのでした。
指導者の論理と支配者の論理というのは、自分の目先の生活のことばかり考えているやつは一番駄目なやつで、国家社会、公共のことを考えてるのがそれよりいいんだみたいな価値観の序列があるんですよね。ところが僕は違うんです。僕は反対なんです。自分の生活のことを第一義として、それにもう24時間とられて、他のことは全部関心がないんだって、そういう人が価値観の原型だって僕は考えている。
これは、前も紹介しましたが、NHK・Eテレの吉本隆明を特集した番組(戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」「第5回 自らの言葉で立つ 思想家~吉本隆明~」)の中で取り上げられていた吉本隆明の発言です。
高齢のためにアルバイトすらなかなか見つけることができない。見つかっても警備員のような薄給で体力的にきつい仕事しかない。アルバイトの現場では、外国人の若者の方がはるかに労働力として重宝され、彼らができない仕事を落穂拾いのように与えられるだけ。
そんな現実の中で出会った(出会いつつある)のが、「外国人排斥」に繋がりかねないような〈政治〉です。「自分の生活のことを第一義として、それにもう24時間とられて、他のことは全部関心がない」彼にとっての〈政治〉がそれなのです。
昨日(7月8日)は安倍銃撃からちょうど1年でしたが、親ガチャで過酷な人生を歩むことを余儀なくされた山上徹也容疑者にとっての〈政治〉は、安倍晋三であり旧統一教会だったのでしょう。
■革命は胃袋の問題
日々の生活に追われ、自分の生活を一義に考えていく中で、阻害要因として目の前に立ちはだかるのが〈政治〉なのです。与党か野党かとか、政党支持率がどうかとか、投票率がどうとかいったことは二義的なことで、日々の生活に追われ、自分の生活を一義に考えている人々にとっては、どうでもいいことなのです。
でも、メディアに出ている識者やジャーナリストは、そんな「どうでもいいこと」を政治としてあげつらい、大事なもののように言うのです。生活者が無関心なのは当たり前なことなのに、無関心ではダメだ、だから政治がよくならないのだ、と説教するのでした。
日々の生活に追われる人々にとって、もっとも切実で大事な問題は今日のパンを手に入れることです。そして、パンが手に入らないとき、初めて〈政治〉と出会うのです。竹中労は、革命は胃袋の問題だと言ったのですが、とどのつまりそういうことでしょう。
ちなみに、吉本隆明は、埴谷雄高との論争の過程で書かれた「政治なんてものはない」という文章の中で、「革命」について、次のように書いていました。
「革命」とは「現在」の市民社会の内部に厖大な質量でせり上がってきた消費としての賃労働者〈階級〉の大衆的理念が、いかにして生産労働としての自己階級と自己階級の理念(およびそれを収奪している理念と現実の権力――その権力が保守党であれ革新党であれ――)を超えてゆくか、という課題だと考えております。
(『重層的な非決定へ』・埴谷雄高への返信)
しかし、これは、新旧左翼と同じように、大いなる錯誤だとしか言いようがありません。何だかシャレみたいに上げたり下げたりしていると思うかもしれませんが、吉本隆明もまた、上か下かの視点が欠如した市民的価値意識に囚われた人なのです。
武蔵小杉や有明のタワマンの住人に向かって、「子育て大変ですよね」「私たちは皆さんの経済的負担を軽減したいと考えています」「皆さんの味方になりたいのです」と演説している、左派リベラルの政党なんて「敵だ」「クソだ」と思われても仕方ないでしょう。”下”の人々にとって、そんなものは〈政治〉でもなんでもないのです。
宗教二世に限らず、多くの”下”の人々が山上徹也容疑者に共感するのも、彼の生活や人生に自分と重なるものがあるからでしょう。
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