
(写真AC)
■常軌を逸したワンマン経営
ビッグモーターをめぐる問題でクローズアップされているのは、前社長親子の常軌を逸したワンマン経営です。まさにブラック企業の典型のような会社ですが、しかし、前社長親子が退陣しても、彼等が会社のオーナーであることには変わりないのです。これからは株の100%を保有する資産管理会社を通して、ビックモーターを動かすことになるのでしょう。
ビッグモーターは、六本木ヒルズの森タワーに本社を構え、資本金4億5千万円、従業員数6千名の非上場の「大企業」です。非上場だと、社外(株主)の意向に左右されず安定した経営環境のもとで事業を行なうことができるメリットがある一方で、コンプライアンスが欠如しオーナー社長の独善的な企業経営に陥ることになりかねないと言われますが、ビッグモーターはその典型と言えるでしょう。
1976年山口県岩国市で個人経営の自動車修理工場を創業して、10年もたたずに西日本を中心に多店舗展開を開始し、2000年代に入ると全国に店舗を広げるまでになったのです。
今回の保険金不正請求では、板金部門の不正がクローズアップされていますが、多店舗展開するに際して下関に設立したのが鈑金塗装専門工場で、もともと前社長自身の中に、“金の成る木”としての板金塗装に対するこだわりがあったように思います。前社長の車屋としての出発点は、「板金屋」だったのかもしれません。
■日本社会のブラックな体質
ビッグモーターがブラック企業なのは論を俟ちませんが、しかし、同社が特殊な会社なのかと言えば、決してそうとは言えません。ビッグモーターのような会社は、それこそ枚挙に暇がないくらいどこにでもあるのです。
ブラック企業のオーナー経営者に共通しているのは、一代で財を成したことによる“成金趣味”です。それは、傍から見ていて恥ずかしいような光景ですが、しかし、過剰な自信家である当人は得意満面に違いありません。会社がブラックであるかどうかはさて置くとして、例えばソフトバンクの孫正義氏などにもそれが見て取れます。
そして、彼らの“成金趣味”が企業経営にも反映し、ビッグモーターのようなブラックな体質を必然的に生み出しているように思います。ヤフーの“ネットの守銭奴”のような体質も同じです。
でも、悲しいかな、成金は所詮成金なのです。早稲田を出てMBAを取得した息子は自慢の息子だったに違いありませんが、同時に高卒の叩き上げの身にはコンプレックスの対象でもあったのかもしれません。それが、「コナン君」の人を人とも思わないような暴君ぶりを許してしまったのではないか。
一方で、ビッグモーターで役員や店長を務めたとかいう人物が、まるでホワイトナイトのように、ビッグモーターの体質を批判する先頭に立っていますが、過去の立場を考えれば彼だって一連托生だったのです。彼らのパワハラの犠牲者になった社員もいるでしょう。
こういった寄らば大樹の陰から一転して手のひら返しに至る心性も、三島由紀夫が指摘したように「空っぽの日本人」の特徴を表しており、日本の社会ではめずらくないのです。
■ブラックな福祉事業
私の友人は、現代のいちばんのブラックな業界は、福祉だと言っていました。低賃金と劣悪な労働環境のもとに置かれている介護労働者の背景にあるのは、”福祉”の美名の陰に隠された福祉業界のブラックな体質だと言うのです。
福祉のブラック化は、福祉事業の民間委託の流れから生まれたものです。民間委託というのは、要するに資本の論理を取り入れるということで、ブラック化はある意味で必然とも言えるのです。もっとも、民間委託と言っても介護保険制度を通した公的なコントロール下にあり、社会福祉法人が地方公務員の天下りや再就職の場になっている現実も少なくありません。元公務員たちが、外国人研修制度の監理団体と同じように、介護労働者を管理する立場に鎮座ましましているのです。
それは介護だけではありません。福祉事務所の委託を受けて、年間数千件の葬祭扶助の葬儀を引き受けている、天下りの元公務員たちに牛耳られた社会福祉法人もあります。
介護労働者の給与の大半は、介護報酬という名の国費(介護保険)で賄われているのですが、そもそも介護報酬が低すぎるという指摘があります。そのため、零細な事業所ほど人手不足とそれに伴う利用者の減少で赤字に陥っており、全体の30%近くが赤字だという話さえあるのでした。
その一方で、介護施設をいくつも運営するような規模の大きな事業所においては、介護報酬による”内部留保”を指摘する声があります。国から支払われる介護報酬を労働者にまわすのではなく、経営者が”内部留保”として溜めこんでいるのです。そういった二極化が、福祉のブラック化を見えなくさせていると言っていました。
広島の医師が、ブログの中で、「介護業界の闇・・・、そして在宅療養の勧め」と題して、次のように書いていました。
介護施設がより多くの利潤を追求しようとすると、得られる介護報酬には上限があるため、より少ない職員数での施設運営の方向に向かうしか方法はありません。やりがいのない、賃金の安い、ハードな職場となるため、職員は次々と入れ替わっていきます。介護職員の使い捨てのような状態が生じてしまうのです。そして、それは結局入居者への不利益へとつながるのです。
https://www.matsuoka-neurology.com/posts/post5.html
また、「公益性を求められる社会福祉法人が、利益最優先の介護施設運営」に走った結果、「経営陣は介護職員の能力を軽視しており、介護の素人でも代わりがきくと考えている」と書いていました。
介護の現場で頻発する入所者に対する暴力に対して、「気持はわかるけどな」という声が多いのも、介護という仕事がもっとも低劣なやりがい搾取になっているからでしょう。「能力」や「質」が問われず、ただ低賃金・重労働でこき使われるだけの介護の現場で、仕事に誇りを持てと言う方が無理があるのです。もとより、介護の仕事を失業対策事業のようにした国の責任は大きいのです。
しかも、まるで屋上屋を重ねるように、さらに規制を緩和して介護の仕事を外国人に開放する動きが進んでいますが、それは低賃金・重労働を前提とした愚劣な発想にすぎません。そこにあるのは、プロレタリア国際主義ではなく、3Kの仕事を担う若くて安い人材がほしいという資本の論理なのです。
ビッグモーターの前社長親子と、現代のドレイのように社会の底辺で酷使される介護労働者を対比する中で、この社会のあり様を考えることは決して無駄ではないように思います。
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