
パレスチナの女の子(写真AC
■田中龍作ジャーナルの写真
田中龍作ジャーナルに下記のような悲惨な写真が掲載されていました。思わず目をそむけたくような写真ですが、これが今ガザで行われていることであり、決して私たちは目をそむけてはならないのです。
田中龍作ジャーナル
【パレスチナ報告】イスラエル軍は子供をピンポイントで爆撃した
しかし、日本のメディアでは、こういった画像を掲載する際、必ずボカシを入れて、悲惨な部分がわからないように加工するのが一般的です。目をそむけるも何も、最初から目をそむけないで済むように手が加えられているのです。
ニュース映像でも、日本はアナウンサーや声優がナレーションを入れたりして編集したものを流しますが、アメリカのテレビなどは、爆撃の衝撃音や人々の泣き叫ぶ声など、現地の生の音をそのまま流すケースが多いそうです。
そのためかどうか、ガザのジェノサイドに対しても日本の世論は反応が鈍く、結局は「どっちもどっち論」に逃げているだけです。“卑怯な傍観者”に徹し、そんな自分を「どっちもどっち論」で合理化しているだけなのです。もとより、メディアの報道も、最初から「どっちもどっち」を予定調和にしたものばかりです。
■「どっちもどっち論」の論拠
今日の朝日新聞に、イスラエルのネタニヤフ首相の支持率が低迷しており、ネタニヤフ支持だった新聞も、とうとうネタニヤフ氏に「辞任要求」したという記事が出ていました。
朝日新聞デジタル
ネタニヤフ首相の支持率低迷、地元紙も退場勧告 国民がいらだつわけ
私は、ガザ侵攻を始めたネタニヤフ氏に対して人心が離れているのかと思ったらそうではなく、ひと月経つのに「人質解放」という戦果が得られてないネタニヤフ氏のやり方に批判が集まっているということのようです。読み方によっては、ジェノサイドが手ぬるいと言っているようにも読めるのです。
アメリカの若者たちがパレスチナ支持の運動を始めたのは、スタンフォード大学の学生が発端だそうですが(その背景には、オキュパイ運動の継承があると私は思っていますが)、そんなスタンフォード大学の学生に対して、ユダヤ人の大物企業家たちが、反イスラエルの学生は自分たちの会社に「就職させない」と脅しをかけているそうです。そして、運動に参加した学生の個人情報を収集して、それを公開しているという話さえあるそうです。もはやファッショと言ってもいいようなひどい話ですが、でも、日本のメディアはそのことについても、ユダヤ人企業家の脅しに「学生たちの心が揺れ動いている」というような報道の仕方をするのでした。
「どっちもどっち論」を唱える日本のリベラル派は、イスラエルの蛮行と「ユダヤ人問題」は切り離して考えるべきだと言うのですが、このようにナチに迫害されたユダヤ人たちが今度はパレスチナ人たちに対するジェノサイドを無条件に支持し、それに反対する人間たちに脅しまでかけているのです。それがシオニズムがカルト思想であるゆえんですが、にもかかわらず「ユダヤ人問題」は切り離して考えるべきだというのは、ナチスのホロコーストで時計の針が止まったままのお花畑の論理としか言いようがありません。
また、アメリカでユダヤ人やユダヤ教の関連施設に対する嫌がらせや暴力行為などが頻発していることに対して、ユダヤ教の礼拝所の代表が「世の中は“善人か悪人か”というシンプルなストーリーを求めている。しかし実際はそんな単純な話ではない」と言ったことを取り上げて、それを「どっちもどっち論」の論拠にしている人たちもいますが、もちろん、今、私たちの目の前にある”狂気”が、そんな耳障りのいい常套句で済ませるような「単純な話ではない」ことは言うまでもありません。イスラエルのジェノサイドの現実を見て(また、上の子どもの死体の写真を前にして)、よくそんな呑気なことが言えるなと思います。
何度もくり返しますが、ジェノサイドの背景にあるのがユダヤ人のシオニズム思想であり、その根本(ど真ん中)にあるのが「ユダヤ人問題」なのです。普通に考えても、今のジェノサイドと「ユダヤ人問題」を切り離すことなどできないし、できるはずもないのです。
イスラエルの政治家たちがパレスチナ人を「ヒューマン・アニマルズ」(動物のような人間)と呼ぶのは、彼らが「右派」政治家だからではないのです。シオニスト(ユダヤ教徒)だからなのです。その根本にあるのは(世俗主義としての)ユダヤ教の問題なのです。
2千年の流浪の歴史や600万人が犠牲になったホロコーストの受難の歴史を含めて、ユダヤ教徒たちの存在証明であるシオニズムと、彼らが今憑りつかれている”狂気”の関係を、一切のタブーを排して考える必要があるでしょう。
■”無責任の共犯関係”
それにしても、日本はどうしてこんなに、他人の悲劇や不幸に鈍感な国になったんだろうと思わずにおれません。あれだけの大震災を相次いで経験したのに、この鈍感さはどこから来るのか。
もっとも、未曾有の原発事故に遭遇しても、結局世論は元の木阿弥を求めたのです。まるで政治家が世論を無視して勝手に原発の再稼働をはじめたみたいに言いますが、そうではありません。事故後の選挙などを見ても、民意はあきらかに元の木阿弥を選択したのです。その方が”被害者”として居心地がいいからでしょう。過去の戦争でもそうでしたが、自分たちは加害者ではなくあくまで可哀想な被害者でいたいのです。その方が責任を問われなくて済むからです。そうやって”無責任の共犯関係”が結託されるのです。
田中龍作ジャーナルに載っているような画像を流せば、この鈍磨な世論も少しは変わるかもしれません。報道の自由度68位(2023年)のメディアが糞なのは重々承知の上であえて言えば、だから、日本のメディアは、報道倫理や人権報道を盾に、素の画像を掲載しないのかもしれないのです。
私は、むしろそっちの方がおぞましく覚えてなりません。