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■建長寺


昨日、午後からふと思いついて北鎌倉に行きました。 

横浜駅で東横線から横須賀線に乗り換えると、最寄り駅から乗り換えの時間も入れて40分くらいで行けます。

前に北鎌倉に行ったのはコロナ前なので数年ぶりです。ただ、平日の午後3時すぎだったからなのか、観光客は想像していたより少ない気がしました。

線路沿いを鎌倉駅方面に歩いて建長寺に行きました。建長寺の中も観光客はまばらでした。時節柄なのか、いつの間にか拝観料が500円に値上げされていました。なお、入口には「天園ハイキングコースを歩かれる方も拝観料をお支払い下さい」と注意書きがありました。

建長寺は、臨済宗建長寺派の本山の禅寺なので、背後の山の麓には修行僧が建てた「塔頭たっちゅう」と呼ばれる小寺が散在しています。

■葛西善蔵


このブログでも書きましたが、葛西善蔵は肺結核の療養のため、一時その小寺の庫裏くりを借りて住んでいました。当時の文士は、貧乏と女と肺病を経験しないといい小説が書けないと言われたのですが、葛西善蔵はその典型のような破滅型の私小説作家でした。

葛西善蔵が建長寺の裏にある「塔頭」の庫裏を借りたのは、関東大震災があった1923年(大正12年)ですから、働きもせずにブラブラして小説を書いているような人間は、文字通り世間からは”いいご身分”のように見えたことでしょう。しかし、本人たちは自分たちを“人非人”と自称していたのです。それで生れたのがわたくし小説です。でも、私小説の自己卑下はエリート意識の裏返しでもあります。中村光夫が「私小説演技説」を書いて、彼らを批判したのも一理あるのです。

森敦も放浪していた途中に、山形の山奥の古寺の天井裏を借りてひと冬を過ごし、その体験から名作の「月山」が生まれたのですが、昔はお寺が旅人を泊めたりしていたので、文学の”後援者”としてのお寺の存在も見過ごすことはできないのです。

私の高校時代の同級生で何故か僧侶になり、名刹と言ってもいいような有名なお寺の住職になっている男がいるのですが、ある日彼から別の同級生に、九州で住職のいない無住寺があるので、「〇〇(私の名前)は小説を書いているんだろ? だったらその寺に住んで小説を書けばいいんじゃないかと思ったんだけど、〇〇に話をしてくれないか」と、電話がかかってきたそうです。同級生は、「〇〇が小説を書いているという話は聞いたことがないな」と答えたのだそうで、私に電話してきてそう言ってました。

私が高校時代から本を読むのが好きだったのでそういう噂が流れているのかもしれませんが、小説を書くためにお寺を貸すという発想が今の時代も存在しているのかと思いました。

葛西善蔵本人と彼と(今風に言えば)不倫関係にあった茶店の娘「おせい」(浅見ハナ)の墓が、「塔頭」のひとつである回春院の境内にあるそうなので、お参りしたかったのですが、残念ながら回春院は立ち入り禁止になっていました。もっとも、葛西善蔵の生家は青森で、彼の墓もそちらにあるので、不倫相手と一緒に建長寺の小寺に墓があるというのはおかしな話ではあるのです。

「塔頭」の間には民家とおぼしき家屋もあり、車も止まっていました。天園ハイキングコースの入口にあたる半僧坊まで歩いて下に降りて来ると、ちょうど犬の散歩をしていた高齢の女性に遭遇しました。それで、「あの民家のような建物は何なんですか?」と訊いてみました。

「お寺の関係者もいるし、普通の方たちも住んでいますよ」
「そう言えばゴミの集積場もありましたね(笑)。中には自動販売機を置いた家もありましたが、昔はあのあたりに茶店があったのですか?」
「そうですよ」
「じゃあ葛西善蔵が借りていたのもあのあたり?」
「そうです。よくご存知ですね」
「で、食事を提供していた茶店の娘と不倫関係になったという茶店もあのあたり?」
「そうです、そうです。ホントによくご存知で」
何でもその女性は昔編集の仕事をしていたそうで、犬は退屈そうでしたが、それからひとしきり葛西善蔵の話で盛り上がったのでした。

■中国人観光客


建長寺を開山した大覚禅師(蘭渓道隆)は中国西蜀淅江省の出身だそうで、そのためもあるのか、境内ですれ違った観光客の大半は中国語を話していました。

建長寺のあとは鎌倉駅まで歩きました。途中の切通しのトンネルを過ぎた先にある洋菓子店の「歐林洞」がもぬけの殻になっていたのはびっくりしました。私も若い頃、鎌倉在住のガールフレンドと行ったことがありますが、ちょっと高級な喫茶店で、中にはコンサートができるスペースもありました。「パトロン」という洋菓子が有名だったのですが、新型コロナウイルスが蔓延しはじめた2020年の6月に閉店したみたいです。

雑草に覆われ看板の店名が剥がれた建物は、何だかハリケーンが通り過ぎたあとに放置された廃屋のような感じでしたが、そういった新型コロナウイルスの痕跡は至るところで見られるのです。百年に一度の災禍というのは決してオーバーではないのです。ペストと同じで、のちの時代になれば私たちは「生き証人」と呼ばれるのかもしれません。

小町通りは相変わらず人であふれていましたが、ただ都内と違って欧米系の観光客は少なくて、やはりすれ違うのは中国語を話す観光客ばかりでした。ただ、中国人観光客と言っても、前のような中高年の団体客は減り、個人旅行の若い観光客が多くなった気がします。筒井康隆が「農協月へ行く」で書いたように日本人もかつてはそうだったのですが(誰も中国人を笑えない)、中国社会も経済発展に伴い人々の生活意識やスタイルも、徐々に変わりつつあるのでしょう。

鎌倉駅からの上りの横須賀線は、通勤ラッシュ並みの大変な混みようでした。それで、たまらず途中の戸塚駅で下車しました。戸塚からは市営地下鉄で関内まで行き、関内から馬車道まで歩いて、馬車道からみなとみらい線で帰りました。


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葛西善蔵
森敦「月山」


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

DSC03443.jpg北鎌倉駅

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2023.12.05 Tue l 鎌倉 l top ▲