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(2023年12月)



■花粉症の到来


こんな私事を書いても興味ないでしょうが、ただ、このブログは私にとっては備忘録のような側面もありますので、何卒ご容赦ください。

年の瀬も押し迫ってきましたが、年内にやらなければならないことがあまりに多くて、スマホのアプリの「ToDo」にそれらをリストアップしたら、よけい憂鬱になってしまいました。

私は花粉症がひどいのですが、しかし、コロナ禍の3年間は不思議と症状が出ませんでした。通常だと1月から4月頃まで、月に一度病院で花粉症の薬(アレルギーを抑える錠剤と点鼻薬と目薬)を処方して貰っていたのですが、この3年間はいづれも一度処方して貰っただけで済みました。

ところが、今年は先週から既に花粉症の症状が出始めたのでした。急に寒気がして身体がだるくなり、クシャミと鼻づまりが始まりました。あきらかに花粉症が発症しはじめた兆候です。

こんなことは初めてです。あわてて薬箱の中を探したら、飲み薬が10日分くらい残っていました。また、点鼻薬も封を切ってないものが2本ありました。ただ、1本は使用期限が既に切れていましたので捨てざるを得ませんでしたが、残り1本の使用期限は来年の3月まででしたので、一日に1度鼻の中に噴射したら、鼻づまりはかなり改善されました。

飲み薬も一日に1度飲むだけですが、1回飲んだあと、薬を入れていた小さなポリ袋が見当たらなくなったのです。いくら探しても出てきません。狐につままれたような話ですが、デイバックに入れていたので、外出先で何かを出すときに落としてしまったのかもしれません。そうとしか思えないのです。

先週、かかりつけの病院を受診したばかりなのですが、これでは花粉症の薬を処方して貰うためにもう一度受診しなければなりません。

考えてみれば、かかりつけの病院にはもう20年近く通っています。この20年間で受付の女性や看護師さんも全員変わりました。最近も受付の一人を残して顔ぶれが一新されていました。ボーナスに不満があったのかなと思いました。

かかりつけの病院は、支払いにキャッシュレスができず、現金一択なのでそれが面倒でなりません。普段はほどんど現金を持ち歩かないので、病院に行くときだけATMで現金を下ろさなければならないからです。

■キャッシュレス社会


キャッシュレスとは恐ろしいもので、たとえば外出先で食事をしようと思っても、スマホ決済などのキャッシュレスの表示がなく現金一択だと、いつの間にかスルーするようになっている自分がいました。でも、そうやって属性と結びつけられた決済のデータがビッグデータとして売り買いされ、自分のあずかり知ぬところで自分のデータが独り歩きしているのです。わかっているけれど、現実に流されてそれほど切迫感はないのでした。

私がこのブログで宇多田ヒカルに絡めて、鈴木謙介氏の『ウェブ社会の思想ー〈偏在する私〉をどう生きるか』(NHKブックス)に触れたのが、2007年の9月でしたので、もう16年前の話です。

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宇多田ヒカル賛

私は、ネットの時代を「ひとり歩きする個人情報によってとどめもなく増殖する自己イメージを抱えたまま立ちすくむしかないような時代」と書きましたが、立ちすくむどころか、今の自分はその中にどっぷり浸かっているのでした。まるで「増殖する自己イメージ」に自分が規定され承認を得ているような、そんな時代になっているのでした。コロナ禍でそれがいっきに進んだように思います。

■カミュのような作家はもう登場しない


もちろん、それはペストの時代にはなかったものです。しかも、今回は『ペスト』を書いたカミュのような作家は出ていないのでした。

桐野夏生は、リニューアルした『世界』(2024年1月号)の「いま小説を書くということ」という副題が付けられたインタビュー記事の中で、「大衆的検閲と切り取りが横行する中、作家が表現を自粛しないようにするためにはなにが必要でしょうか」と問われて、次のように語っていました。

桐野 まず作家の勇気と、出版社の勇気でしょう。読者はなにを言ってもいい。なにを言われても平気な顔していられるように、私たちが強くならなきゃいけないと思います。現実じゃなくてフィクション、表現物なのだから、その自由を守らないと。(略)


さらに続けて次のように言っていました。

桐野 (略)小説には悪に向かう力はないように思います。小説のように、言葉を使って表現するものは、善なるものだと思う。


私は、何と凡庸でつまらない言葉の羅列なのかと思いました。文学は、もはや世界を構想する言葉を持ってないのかもしれません。だから、コロナ禍においても、カミュのような作家が登場しなかったのでしょう。

『世界』では、ほかに批評家の大澤聡氏が、「意見が嫌われる時代の言論」と題する記事の中で、次のように書いていました。

 素人の喧嘩自慢をあつめた格闘技番組「ブレイキングダウン」が人気ですが、試合時間を一分間と極端に制限することで、ひょうとしたら素人がプロを負かすかもという面白さがある。あれとおなじで一四〇字なら一般ユーザーが思いつきで時事について専門家より魅力的な発言をする可能性は十分あります。詳述の余地がないからこそ。


つまり、140文字の「つぶやき」と称する断片的な言葉が大手を振ってまかり通るような時代において、カミュのような作家の登場を期待すること自体が間違っていたとも言えるのかもしれません。ひろゆきのようなピエロが、時代の寵児のようにもてはやされるのもむべなるかなと思いました。

前に大塚英志が、『ユリイカ』の「電子書籍特集」の中で、堀江貴文が「どうでもいい風景描写とか心理描写」をとっぱらって、尚且つ「要点を入れて」あるような小説がみずからの「小説の定義」として上げていたことを取り上げて、それは、文学における文体の否定であり、作者性の否定であると批判していたことを、このブログで紹介したことがありました。大塚英志は、まんがにおいても「ペンタッチの消滅」が主流になりつつあり、それは「自我の発露である『文体』の消滅」とパラレルな関係にあると書いていました。

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140文字の「つぶやき」は論理(対論)の否定であり、ひろゆきの「それってあなたの感想ですよね」という殺し文句も同じように論理(対論)の否定です。ペストと同じように100年に一度の感染症のパンデミックと言われた今回の新型コロナウイルスですが、しかし、私たちをとりまく文化(人文)のあり様はカミュが『ペスト』を書いた頃とは大きく違っているのです。

一方で、ただのユダヤ教徒のシオニストにすぎないことがわかり、その業績に味噌を付けた(というか、その薄っぺらな本質が露わになった)ユヴァル・ノア・ハラリですが、彼は、ガザ侵攻前のまだ自身に対する幻想が生きていた頃に、コロナ後の世界は全体主義的な監視政治体制が強化されるだろうと(自分のことを棚に上げて)警告していました。現実はその通りになっています。ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻などもあり、これほど国家が大きくせり出した時代はかつてなかったのではないかと思えるほどです。

IT技術を駆使した新たな全体主義デモクラティック・ファシズムの時代が到来したと言ってもいいかもしれません。

■立憲民主党は獅子身中の虫


立憲民主党がどうして獅子身中の虫なのかと言えば、立憲民主党をつくった旧民主党系の人間たちには、松下政経塾出身者が多く、その国家観はきわめて保守的(右翼的)なものであるにもかかわらず、それが労働戦線の右翼的再編で誕生した連合と結びついて野党を装っているからです。そこに今の日本の不幸があるのです。それは今までも何度も言ってきました。

消費税増税の路線を作ったのは旧民主党の野田政権です。だから、今回の消費税減税の論議でも、野党第一党の立憲民主党は反対しています。それでは野党共闘なんてあり得ないでしょう。立憲民主党は第二自民党にすぎないのです。でも、誰もそう言わない不思議を考えないわけにはいきません。ちなみに、従来の児童手当ではなく、所得制限のない「産めよ増やせよ」の子ども手当(のちに名称を児童手当に戻した)を創設したのも旧民主党政権です。それが現在、子育て支援と称して増税の口実に使われているのでした。

今の安倍派と二階派の裏金問題に対して、野党第一党の立憲民主党の動きが鈍いのは、彼らがその国家観を自民党と共有しているからです。問題は、東京地検特捜部やメディアが言うように、収支報告書に記載したかどうかではないのです。政治資金に税金が投入されいるにもかかわらず、なおかつ、みずからが作ったザル法の政治資金規正法を利用して裏金を作っていたという、国家を食い物にする構造そのものが問題なのです。

■「凡庸な悪」と世論


政治資金規正法では、個人の寄付の場合5万円以下だと寄付した人間の氏名や住所などを収支報告書に記載する必要がありません。また、パーティ券を買った個人や法人でも、20万円以下だと同じように記載しなくていいのです。

今回の裏金問題でも、パーティ券を買った企業の名前が一切出て来ないのもそのためです。20万円つづ別々の人間が買ったようにすれば、ブラックボックスの中に隠れることができるのです。

私たちは使ったお金を経費で落とそうと思えば、10円でも100円でも領収書が必要です。領収書がなければ経費として認められません。パーティ券を売れば、その売り上げに対して当然所得税がかかるでしょう。

でも、政治家たちはこのようにザルなのです。もちろん、政治資金であれば非課税です。所得税も譲渡税もいっさいかからないのです。政治家たちは、税法の法体系の埒外に存在する、文字通り治外法権に置かれた特権階級なのです。政治には金がかかると言って、そういった法律を政治家みずからがお手盛りで作ったからです(その先頭に立ったのが小沢一郎です)。

群馬県の桐生市で、生活保護受給者に対して、保護費を「一日に千円」「週に1万円」と分割で手渡しして、保護費を満額支給してなかったという問題が浮上しましたが(残りの保護費はどうしたのかという疑問が残りますが)、これなども前時代的な官尊民卑を象徴する話と言えるでしょう。メディアは「不適切な支給」と書いていましたが、「不適切」どころではなく、人権をまったく無視した非道な行為だと言ってもいいくらいです。

桐生市の福祉事務所のケースワーカーたちは、一方で自治労の組合員でもあるのでしょうが、まるでビックモーターの創業者父子のようです。そうやって弱い立場にある市民の生殺与奪の権利を握って優越感に浸っていたのでしょうか。そこにあるのは、ハンナ・アーレントが言うアイヒマンと同じ「凡庸な悪」です。その現代版と言っても言い過ぎではないのです。ナチズムのエートスは、21世紀の今日も私たちの日常に生き続けているのです。

小役人たちには以前さまざまなカラ手当の問題が浮上したことがありましたが、自分たちが税金を懐に入れるときは泥棒みたいなことをしてくせに、市民に支給するときはこのように「ごうつくババア」のようになるのでした。

桐生市ではこの10年間で生活保護の受給者が半減したそうです。朝日新聞は、「際立つ取り下げ」と書いていましたが、そうやって嫌がらせをすることで受給を取り下げるように仕向けていたフシさえあるのでした。何だかおぞましささえ覚えざるを得ません。でも、公務員にはそもそも瑕疵という概念が存在しないので、彼らは誰ひとり責任を問われることはないのです。

「一日千円」「週に1万円」で奴隷にように小役人にへいつくばることを強要される市民と、非課税をいいことに億単位の金を裏金としてため込んでいた政治家たち。この同じ国家の住人とは思えないような違いは何なのでしょうか。まるで中世の世界の風景のようです。

しかし、忘れてはならないのは、こういった国家を食い物にする構造デタラメを支えているのは国民だということです。生活保護受給者に対してどうして小役人が居丈高な態度を取るのかと言えば、生活保護受給者を貶める世論があるからです。申告漏れの人間に対する誹謗中傷や人格攻撃も同じです。「善良な」市民なんていないのですが、「善良」ズラした彼らは、そうやって国家を食い物にする公務員や政治家たちからいいように踊らされ、“ホントの悪”から目を反らす役割を担っているのでした。

まさに愚民としかいいようがありませんが、でも彼らは街頭インタビューで、「政治家に不信感を持たざるを得ませんね」「税金を払うのがアホらしくなりますよ」などと、いけしゃあしゃあと言ってのけるのでした。でも、社畜とはよく言ったもので、源泉徴収されるみずからに一片の疑問を持つことはないのです。ホントは、子育て家庭としてもっとお金を支給してほしい、そうすれば住宅ローンが楽になるとか、家族旅行に行けるとか、子育て支援に舌なめずりするだけのそんな目先の欲しか眼中にないのです。

埴谷雄高や五木寛之は意識して子どもを持たなかったのですが、無定見に子どもを作ることと意識して子どもを作らないことは、後者の方がはるかに思想の深度は大きいと言えるでしょう。でも、将来の納税者を増やすという国家の論理で言えば、前者の方が従順で使い道があるのです。「社会の主人公」と言っても、ただそれだけのことです。まるで種付け馬のように扱われているだけなのです。
2023.12.21 Thu l 日常・その他 l top ▲