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■横山厚夫氏の写真


昭和37年6月3日発行の『奥多摩と大菩薩の旅』(山渓文庫)という古本を手に入れました。昭和37年と言えば1962年ですから、今から60年前の本です。

著者は、梶玲樹かじりょうじ氏という奥多摩山岳会に所属するハイカーです。奥多摩の山のいわばガイドブックのような本ですが、現在は廃道になった古いルートも紹介されていたりと、奥多摩の山が好きな人間には興味がそそられる内容なのでした。また、本には多くの写真が掲載されているのですが、それらは、以前このブログでも紹介した横山厚夫氏が撮影したものです。横山氏もまた奥多摩山岳会に所属していたハイカーでした。

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あらためて写真を見ると、どの山も景色がぬけていて、今まで歩いてきた道も、これから山頂に向けて歩く道も見通すことができるのでした。

人間嫌いの私は一人で山を歩きたいので、なるべく土日や休日は避けるようにしています。そして、一日歩いて誰も会わなかったら「今日はいい日だったなあ」と思うのでした。上りと下りは大概人に会うことはありませんが、山頂では似たような”もの好き”に会うことがあり、そのときは私の性分で明るく話しかけたりするものの、心の中では「ついてないなあ」と舌打ちしているのでした。

そんな偏屈な人間ですので、熊に怯えながら奥多摩の鬱蒼とした樹林帯の中を歩くのも嫌いではないのですが、ただ、横山氏の60年以上前の写真を見ると、こんな明るい山を歩きたかったなと思ったりもするのでした。

■「耐久遠足」で登った山


私が子どもの頃に歩いた九州の山も、同じように明るかったのを覚えています。私の頃は既に学校登山はなくなっていましたが、しかし、それでも中学の二学期の遠足は「耐久遠足」と言って、結構な距離を歩いた先にある山に登っていました。

私が出た中学校は久住連山の麓にある「へき地校」でしたので、遠くから通って来る同級生たちも多くいました。私は、彼らの家がある集落(昔は「部落」と言っていた)の名前は知っていても、中学生だったので実際に行ったことはありませんでした。バスが通る県道沿いだと、バスに乗って街に行くときに通るのでわかるのですが、彼らの集落の多くは県道から奥に入った山の中にあったからです。

以前帰省した際、自分の田舎なのでレンタカーのナビを使わずに走っていたら、道に迷って山の奥に入ったことがありました。そして、山の下にへばりつくように点々と家が建っている集落に到着したのですが、スマホの地図アプリで現在位置を調べたら聞き覚えのある集落の名前が出て来たことがありました。そのとき、昔の同級生の顔が浮かんで、あいつはこんなところから通っていたのかと思ったものです。

そんな中で唯一、彼らの家がある集落を訪れる機会があるのが二学期の「耐久遠足」のときでした。そのときは、「エエッ、〇〇はこんなところから通って来ているのか?」と言って、本人をヘッドロックして(もちろん、ふざけながら)「お前の家はどれだ?」と訊き出すのがお決まりの行為でした。

あの頃「耐久遠足」で登った山も、山頂はカヤトで、遠くまで見渡すことができました。そんな目の前に広がる景色に目をやりながら、みんなで弁当やおやつのお菓子を食べたものです。そして、正面にどんと構える久住連山の久住山・大船山・黒岳の雄姿に、何だから誇らしい気持になったことを覚えています。当時の私たちにとって、久住連山、中でも真ん中にある大船山が「おらが山」だったのです。

■昔の山が羨ましい


『奥多摩と大菩薩の旅』の冒頭、著者の梶玲樹氏は次のように書いていました。

 奥多摩と大菩薩の山々は、丹沢山塊などとともにもっとも東京から近いのと、日帰りできる山が多く、そして親しみやすい山域のため登る人はきわめて多い。電車やバスは日曜日となると前夜からの宿泊者や夜行列車組も含めて大変混雑する。その数は奥多摩で年間五〇万人、大菩薩と小金沢の山々で二〇万人と推定される。これらはみな、登山というよりハイキングを楽しむ人たちであり、訪れる人の層もまちまちで、地図も持たずに都会の歩道を歩くのとなんら変わらない服装の人たちも多く見かける。そうかと思うと事前の調査が不充分なのだろうか、不必要な装備を弁慶の七ッ道具よろしく背負い、ザイルを肩に、ハンマーやカラビナを腰に下げている人までいる。


この本には掲載されていませんが、横山厚夫氏の写真に、当時の氷川駅(現在の奥多摩駅)の駅前の人混みを撮ったものがありますが、今では考えられないくらい登山(ハイキング)が盛んだったことがわかります。

そして、当時のハイカーたちは、川苔山でも三頭山でも大岳山でも御前山でも浅間嶺(浅間尾根)でも本仁田山でも、今とは違ったぬけた明るい景色の中を登っていたのです。

巻末には、奥多摩に存在した山小屋や旅館の一覧表もありましたが、昔はこんなに宿泊施設があったのかと思いました。私の田舎でもそうでしたが、昔は前泊して山に登るのが普通だったので、宿泊施設もあちこちにあったのでしょう。山小屋も至るところにあり、登山というより”山旅”のような体験を求めて山に来ていたことがわかります。

ローカルな話になりますが、日原にも2件の旅館と国民宿舎があったみたいです。その中のひとつの「使用料」には、「二食付き五五〇円より。毛布のみ素泊まり一五〇円より」と記載されていました。奥多摩湖(小河内ダム)周辺には20軒近くの旅館があり、バス停の「小河内神社」には3軒、「深山橋」には2軒、「鴨沢」にも3軒ありました。小河内ダムに隣接した水根(六ッ石山と鷹ノ巣山の水根ルートの登山口)にも旅館がありました。

これも前に若山牧水の『木枯紀行』を紹介した中で書きましたが、昔の旅は歩くことが主で、今で言うロングトレイルのようなものだったので、登山(ハイキング)もその延長にあったのかもしれません。

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ちなみに、旅館の宿泊料金は350円(素泊り)から1000円(一泊二食付)くらいまでで、有人の山小屋は(当時は食事を提供してなかったので)200円から300円です。たとえば、雲取山には、秩父鉄道が経営する雲取山荘と、しばらく前まで廃材が残っていた個人経営の雲取ヒュッテがあったのですが(ほかに三峰ルートの途中に今でも建物が残っている白岩小屋もあった)、収容人数は雲取山荘が300人に対して雲取ヒュッテが400人と、雲取ヒュッテの方が規模が大きかったことがわかります。宿泊料金はいづれも200円でした。

『奥多摩と大菩薩の旅』で紹介されている奥多摩の山の上の多くも、カヤトに覆われていたことがわかります。また、御前山や本仁田山の山頂や川苔山の東の肩には、簡単な小屋があって、地元の人たちがジュースなどを売っていたそうです。かく言う私の実家も、一時”アイスキャンデー屋”を兼業でやっていたのですが、ハイシーズンには大船山の中腹でアイスキャンデーを売っていました。アイスキャンデーは地元の農家の馬で運んでいたそうです。

当時の人気の山の名前が今も残っていて、今はその名前で登っているに過ぎない気がします。「奥多摩三山」なんて言っても、どうして「三山」なのかわからないのです。その実感もなく、「奥多摩三山」という名前で登っているだけなのです。

そう考えると、コースタイム至上主義もトレランもなかった昔の登山(ハイキング)は、さぞや楽しく豊かな体験を得ることができたんだろうな、と羨ましく思えてならないのでした。
2024.02.20 Tue l l top ▲