堤清二 罪と業



■身も蓋もない本


遅ればせながら、友人にすすめられて『堤清二 罪と業』(児玉博著・文春文庫)を読みました。

この『堤清二 罪と業』は、2016年の第47回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)の受賞作で、堤清二氏の死によって終了するまで、都合10時間のロングインタビューを行い、そこで語られた堤家の複雑な人間関係とそれに起因する親族間の骨肉相食む物語をまとめたものです。

前も書きましたが、海外のポスターやポストカードを輸入する会社に勤めていたとき、堤清二氏が一代で築いたセゾンを担当していた私は、彼の「自立した消費者であれ」とか「文化は事業になっても、芸術は事業にならない」という言葉に惹かれ、彼がふりまいた”消費革命”の幻想に踊らされたスノッブの一人でもありました。

『堤清二 罪と業』は、堤清二氏自身の証言を丹念にたどることによって、堤清二氏もまた、単なる二代目のボンボンにすぎなかったことを描いている、(かつてのスノッブから見れば)身も蓋もない本とも言えるのでした。ただ、個人的な考えでは、敵味方、好き嫌いに関係なく、カリスマは引きずり降ろさなければならないので、同書を面白く読むことができました。

■堤康次郎


父親の堤康次郎は、幼い頃父親を病気で亡くし、母親は離縁されて実家に帰されたために、尋常高等小学校を卒業すると、祖父の清左兵衛と故郷の滋賀で農業をしていたのですが、20歳のときに清左兵衛が亡くなると、田畑を売ったお金を持って上京するのでした。早稲田大学に入学するためです。そして、早稲田を卒業してからも数々の事業で失敗を重ね、28歳のときに起死回生をはかった軽井沢の別荘地開発が成功、のちの”西武王国”を築く足がかりを得たのでした。また、政治家としても衆院議長にまで上りつめるなど、立志伝中の人物として語り継がれるほどになったのです。

しかし、堤康次郎は大変な好色家で、三度目の妻である青山操(堤清二の実母)の妹とも関係を持ったり、病床にあったときに看病した看護婦とも関係を持って愛人にしたりと、私生活は奔放でした。

どこまでホントかわかりませんが、ウィキペディアには、わざわざ「女性関係」という項目が設けられ、次のように記載されていました。

康次郎の女性関係は派手だった。お手伝いさんから華族まで“女”と名のつくものであれば“手当たり次第”だったという(略)。お手伝いさんから女子社員、部下の妻、看護婦、マッサージ師、乗っ取った会社の社長夫人、秘書、別荘管理人、旧華族…社員たちの言葉の端にのぼっただけでもざっと手を付けた女性はこんな具合である(略)。この後始末は部下の仕事だった(略)。愛人の数は有名な女優を含めて、正確な数は誰もわからないし、康次郎本人もわからなくなっていた(略)。子供12人というのは嫡子として認めた数にすぎず、100人を超えるという説もある(略)。葬儀には康次郎そっくりの子どもの手を引いた女性が行列を作ったという(略)。


堤清二氏は、堤康次郎にとって戸籍上では次男でしたが、康二朗が早稲田の学生時代に、(学生の身分でありながら)日本橋で経営していた三等郵便局の事務員に産ませた長男がみずから申し出て廃嫡になったので、それ以後は清二氏が堤家の長男としての扱いを受けていました。三度目の妻の青山操には、堤清二氏の下に娘の邦子がいましたが、邦子はのちにパリにあった西武百貨店のヨーロッパ駐在事務所の責任者になり、「他の百貨店に先んじて」、アルマーニ、エルメス、イヴ・サンローラン、ソニア・リキエル、ミッソーニなどのブランドと独占契約を結んだのでした。しかし、フランスの警察当局に横領容疑をかけられて職を失い、失意のままこの世を去るのでした。

堤康次郎には、清二氏の他に、三男に西武グループの中核企業であったコクドや西武鉄道を率いた堤義明氏、四男に豊島園の社長を務めた康弘氏、五男にインターコンチネンタル東京ベイの社長を務めた猶二氏がいましたが、義明氏、康弘氏、猶二氏は、清二氏とは腹違いの弟で、子どもたちは認知されていたものの、母親は未入籍のままでした。言うなれば義明氏らは、昔で言う「二号さん」の子どもだったのです。

■独裁者としての資質


そういった複雑な家庭環境を背景に、兄・清二氏と弟・義明氏の確執や、”西武王国”が崩壊する過程では親族の間で骨肉の争いが生じ、メディアの格好の標的になったでした。

もっとも、好色家の父親の性癖は子どもたちにも受け継がれており、清二氏、義明氏ともに女性関係の噂は絶えることがありませんでした。それぞれ著名な女優と愛人関係にあったという噂がありましたが、中には、お手付きの女性社員を押し付けられて結婚した社員が、役員にまで引き上げられたという話さえあるそうです。

また、堤康次郎氏は、”カミソリ堤”と呼ばれ、暴君として知られていましたが、その独裁者としての資質も、清二氏にも義明氏にも受け継がれていました。セゾンも西武も、典型的なワンマン経営だったのです。

以前、池袋の西武デパートの地下にリブロという書店がありましたが、リブロは堤清二氏の肝入りで作った(というか、自分のために作った)書店で、毎日必ず顔を出して書籍を購入していたそうです。

私は当時、埼玉に住んでいて、しょっちゅうリブロで本を買っていましたし、セゾンを担当していたということもあって、リブロの店員と顔見知りになり、いろんな話を聞きましたが、その中でいちばん多かったのは会長(堤清二氏)の暴君ぶりでした。

『堤清二 罪と業』にも書かれていますが、堤清二氏がどんな本を購入したのか、秘書や役員たちがそれを知りたがるのだそうです。そして、彼らも同じ本を買い、手分けしてその概要を頭に叩き込むのだとか。でないと、あとで堤清二氏から話題を振られ、うまく答えることができないと怒りを買うからです。

堤清二氏は、事業家としての顔を持つ一方で、辻井喬というペンネームを持つ作家・詩人の顔も持っていました。毎日、帰宅すると2時間書斎にこもって、本を読んだり創作したりしていたそうですが、そうやって暴君としての事業家の顔と、繊細な作家・詩人としての顔を使い分けていたのです。

でも、自分のことを考えればわかりますが、表と裏はあるにしても、サイコパスでもない限り、二つの顔を使い分けることなどできるわけがありません。どっちかがホンモノで、どっちかがニセモノのはずです。

余談ですが、鈴木涼美が登場したとき、私は、テレビのコメンテーターだけにはならないで貰いたいと書いたのですが、案の定、最近、YouTubeに出て発言している彼女を見ると、がっかりすることが多いのです。こんな薄っぺらな考えで、小説を書いているのかと思うと、いっぺんに興ざめするのでした。

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文学(の言葉)というのは、所詮はそんなものなんだなと思います。若いときはそうでもありませんが、ままならない人生を生きて年を重ねると、文学の言葉の薄っぺらさが透けて見えるようになるのでした。

■血は汚い


箱根の別荘地の売買で財を成した堤康次郎は、麻布の北条坂に大邸宅を構え、その本館を時の総理大臣の東条英機に迎賓館として提供していたのですが、米軍の空襲で焼け落ちる際、堤康次郎は、清二氏の目の前で「敷地に逃げ込もうとした被災者を鬼の形相で一歩たりとも入れようとせず、「財産を守るとはこういうことだ」と言い放ったそうです。

でも、堤清二氏は、人の道を踏み外してまで財産を守ろうとした父親に、一定の理解を示すのでした。堤清二氏には、父・堤康次郎に対して、愛憎二筋のアンビバレンツな感情があったのでしょう。でも、私は、やはり、「血は汚い」という言葉を思い出さざるを得ません。

西武のライバルであった東急もそうですが、日本の資本主義がまだ”成熟”していない発展段階においては、商売人としてこういったむき出しの暴力的なエピソードが通用する余地はあったのかもしれません。もちろん、それは、資本制社会の中に、家父長的な”家内制手工業”の残滓が、燃えカスのように残っていたからです。

”西武王国”が崩壊したのは、公私混同した前近代的な経営形態が行き着いた当然の帰結という側面があるものの、同時に資本主義の”成熟”と金融資本の台頭という、教科書に書いているような発展段階の構図も見て取れるのでした。

所詮は二代目のボンボンにすぎなかったと言えば、それまでですが、「売り家と唐様で書く三代目」という川柳があるように、現代の”成熟”した資本主義は、三代までのさばることを許さなかったと言っていいのかもしれません。

本書には、”西武王国”を率いた堤義明氏に関して、次のようなエピソードが紹介されていました。

 康次郎の言いつけを守り続け、幼い時から堤家独特の帝王学を学んできた義明の精神構造は、独裁の酷薄さと幼稚さが同居した。ロールスロイスに乗るや、運転手に「コロッケを買いに行け」と言いつけ、コロッケをロールスロイスの広過ぎるであろう後部座席で一人頬張っては、
「お前たちはこんな美味いもんをいつも食べているのか」
と漏らしたりもした。


また、箱根の別荘に幹部たちを招集して馬乗りをして遊んだという、耳を疑いたくなるようなエピソードも紹介されていました。

全国のプリンスホテルに視察に訪れる際、支配人たちは、義明氏が前日に食べた献立を調べるのが必須だったそうです。もし、同じメニューを出したら、義明氏の逆鱗に触れるからです。実際に、前日と同じメニューを出した支配人が閑職に追いやられたケースもあったそうです。そして、到着すると玄関に赤い絨毯が敷かれ、従業員が整列して迎えるのだとか。著者の児玉博氏は、「プリンスホテルの従業員にとって、最上のもてなしを考えなければならないのは顧客ではなく、義明に対してだった」と書いていました。

現代のように、「超資本主義」と言われるほど高度に発達しシステム化された資本主義の時代において、こんなあまりにも稚児めいた経営者が通用するはずがないのです。それは、最近の某中古車販売会社のスキャンダルでも示されたとおりです。

案の定、堤義明氏も、2005年、(国家権力の常套手段である)証券取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕され、金融資本の手に落ちた”西武王国”と運命をともにするように、みずからも落日を迎えるのでした。

堤清二氏は、「凡庸」という言葉を使って、異母弟のことを次のように評していました。

「(略)義明君が凡庸なことは分かっていましたが、そのまま維持するくらいはできると思ってた。しまったな、と思う訳です。自分が引き継ぐべきだったのかなあ、と。それを思うと、父に申し訳ないことをしてしまったと思うばかりなんですね。毎日、父に詫びております。父が命がけで作って来たものを、いらないって言った訳ですから‥‥、さぞがっかりもしたでしょう‥‥」


著者は、「清二は心底、そう思っているのだろう」と書いていましたが、後継者を巡る話には如何にも自信家らしい清二氏の虚勢が加味されていて、自分が断ったのではなく、父親から禅譲されなかったというのが真相です。その話は別にしても、この発言を見ると、清二氏もまた、「凡庸」な「お家大事」の考えから自由ではなかったことがわかるのでした。

私たちは、そんな堤清二氏がぶち上げた”消費革命”の幻想に踊らされた、いや、みずから進んで踊った、「あえて踊った」のです。崩壊感覚のようなものを抱きながら、「あえて踊った」のです。それが正直な気持です。


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