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■哀しみやせつなさややり切れなさ


ちくま文庫から佐久間文子氏が編集した『佐多稲子傑作短編集 キャラメル工場から』が発売されたので、さっそく買って読みました。若い頃、佐多稲子の小説は結構読んでいたのですが、こうしてまとめて読むのは久しぶりです。

この短編集の中では、本の表題にもなっている1928年に書かれたでデビュー作の「キャラメル工場から」と1934年に書かれた「牡丹のある家」を感銘深く読みました(「牡丹のある家」は後日感想文を書きます)。

小説の中にあふれる哀しみやせつなさややり切れなさは、プロレタリア文学特有のものとも言えますが、同時にそれは、現代にも通じるものがあります。

「キャラメル工場から」は、家庭の事情で小学校5年の13歳(おそらく数え年)のときに、キャラメルを製造する工場で働きはじめた作者自身の体験に基づいて書かれた作品です。故郷の長崎から一家で上京したものの、父親は仕事が続かず、一家の生活が「寸詰まりにつまっていった」中で、家計を助けるために(父親から命じられて)工場勤めをしなければならなくなった少女の日常が描かれているのでした。

特に朝の通勤電車に翻弄される主人公の姿には、都会の片隅で虐げながらも必死で生きている者の(文字通り下層のプロレタリアの)哀しみやせつなさややり切れなさが象徴的に描かれているように思いました。一方で、13歳の少女は、電車賃がなく、片道2時間の道を歩いて通わなければならないこともあるのでした。でも、作者は、その中にも、ささやかながら人の温かさがあることも忘れないのでした。

 まだ電燈でんとうのついている電車は、印袢纏しるしばんてん菜葉服なっぱふくで一ぱいだった。皆寒さに抗うように赤い顔をしていた。味噌汁をかきこみざま飛んでくるので、電車の薄暗い電燈の下には彼らの台所の匂いさえするようであった。
 ひろ子は大人達の足の間から割り込んだ。彼女も同じ労働者であった。か弱い小さな労働者、馬に食われる一本の草のような。
「感心だね、ねえちゃん、何処どこまで行くんだい」
 席をあけてくれた小父おじさんが言葉をかけた。
「お父ちゃんどうしてんだい」
「仕事がないの」
 ひろ子はそれを言うのが恥ずかしかった。
「おや、あそんでいるのかい。そいつはたまらないな」
 そう言って彼は親しげな顔付きをした。


■忘れられない姿


私は、上の箇所を読んだとき、ふと、昔見た光景を思い出しました。もしかしたら、このブログでも書いているかもしれませんが、当時、私は池袋から電車で40分くらいかかる埼玉の街に住んでおり、そこから都内の港区の会社に勤めていました。

今のように相互乗り入れが多くなかったので、私たちは池袋駅で始発の私鉄電車に乗り換えて帰らなければなりませんでした。帰宅時間帯の池袋駅のホームはすさまじく、電車が着いてドアが開くや否や、座席を確保するために、ホームの乗客が我先に車内になだれ込むのでした。

私は上京してまだ間もない頃、そうとも知らずにホームの一番前にぼーっと立っていたら、スタートダッシュした乗客に突き飛ばされてえらい目に遭ったことがありました。会社の飲み会の席でその話をしたら、みんなが「嘘だろ」と言うのです。いくらなんでもそれはオーバーだと。それで、飲み会のあと、”埼玉都民”の生存競争の実態を見るために、社長以下何人かが池袋駅まで来たことがありました。

でも、それは池袋だけではないのです。和光市駅では当時既に地下鉄の有楽町線と接続していたので、そこでもすさまじい押しくら饅頭がはじまるのでした。特に電車が遅れたり、あるいは週末の最終電車のときなどは、ホームで待ち構えている乗客たちも殺気立っており、「苦しいっ」という車内のうめき声もなんのその、ラグビーのスクラムのような光景が繰り広げられるのでした。

あるとき、夜遅くの電車に乗っていると、ドアに押し付けられるように立っている若い女性が目に入りました。彼女は、ドアのガラスに両手を揃えるように当てて、外の夜の風景に目を向けていました。ガラスに映っている女性の顔を見ると、まだ少女っぽさが残る面影で、何だか哀しそうでさみしそうな表情をしていたのが印象的でした。化粧っけもなく、まわりの都心に通うOLと違って服装も地味で、使い古したような布のトートバックを肩から下げていました。

ところが、それから数カ月後の夕方、仕事で高田馬場の駅前を通りかかったら、何と舗道に彼女の姿を見つけたのでした。私の中に彼女の記憶が残っていたので、その偶然に驚きました。

彼女は、あのトートバッグを肩から下げて、行き交う人々に片端から声をかけていました。電車の中とは違って、通行人に無視されてもめげることなく、何かにとり憑りつかれたかのように、舗道を行ったり来たりしながら声をかけつづけていました。ただ、恰好は電車の中で見たときと変わっていませんでした。

彼女の前に通りかかると、彼女は私の前に立って「少し時間をいただけませんか?」と声をかけてきました。そして、まるで訴えるような眼差しをこちらに向けながら、”手かざし”で知られる宗教団体の小冊子を目の前に差し出したのでした。

■涙


佐多稲子は、その後、カフェの女給をしているときに、中野重治やのちに夫となる窪川鶴次郎らと知り合い、プロレタリア文学運動に身を投じることになります。「キャラメル工場から」も、中野重治に勧められて初めて書いた小説です。1979年、中野重治が亡くなったあとに出版された『夏の栞』(新潮社)に書かれているように、中野重治との親交は終生変わらず続きました。この短編集にも、中野重治の妻の女優の原泉のことを書いた「プロレタリア女優」という作品が収められています。

プロレタリア文学(革命運動)と新興宗教という違いはあるにせよ、そこにある、一個の人間としての生きる哀しみやせつなさややり切れなさは同じではないかと思うのです。佐多稲子の小説が、政治的イデオロギーに従属した従来のプロレタリア文学の概念を越える普遍性を持ち、私たちの心を打つのもそれゆえです。「キャラメル工場から」に限らず、佐多稲子の小説の主人公はよく涙を流すのでした。

「キャラメル工場から」の最後は、次のようなシーンで結ばれていました。既に主人公は、キャラメル工場を辞め、「口入屋くちいれやのばあさんに連れられてある盛り場のちっぽけなチャンそば屋」で働いていました。

 ある日郷里の学校の先生から手紙が来た。
 誰かから何とか学費を出してもらうように工面くめんして――大したことでもないのだから、小学校だけでも卒業する方がよかろう――と、そんなことが書いていた。
付箋ふせんがついてそれがチャンそば屋の彼女の所へ来た時――彼女はもう住み込みだった――それを破いて読みかけたが、それをつかんだままで便所にはいった。彼女はそれを読み返した。暗くてはっきり読めなかった。暗い便所の中で用もたさず、しゃがみ腰になって彼女は泣いた。



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