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都内では今日の夕方、みぞれが雪に変わり、黄昏の空に白いものが舞っていました。4月の雪は19年ぶりだそうです。近くの川ではビルの灯りに照らし出された川面をピンクの花びらがゆらりゆらりと揺れながら流れていました。こうして桜の季節も終わるんだな~と思いました。

今、話題の本、『下流志向』(内田樹著)を読みました。三浦展氏の『下流社会』以来、”下流”という言葉もすっかり定着した感があります。

学級崩壊やニートの問題を引き合いに出すまでもなく、昨今、「学ばない子供」や「働かない若者」がマスとして出現していることには誰も異論はないのではないでしょうか。

そして、その先にあるのが”下流”(名著の誉れ高い山田昌弘氏の著名に従えば「希望格差社会」)のきつい現実です。

では、どうして彼らのような子供達が出現したのでしょうか。

著者によれば、80年代以降の子供達は最初から消費者として社会経験をスタートさせており、それが以前と決定的に違うことなのだそうです。つまり、子供のときから既に消費社会の一員として組み込まれるようになったというわけです。

それはすごくよくわかる話です。

私達が子供の頃は子供は消費者ではありませんでした。つまり、市場の外に置かれていたのです。

たとえば、洋服だって上からのお下がりか、親が買ってきたものを一方的に着せられるだけでした。だから、早く大人になって自分で好きなものを買いたい、つまり、一人前の消費者になりたいと思ったものです。

しかし、今や、休日に原宿や渋谷の通りを歩いている子供達を見るまでもなく、子供向けのファッションは一大マーケットになっています。

お店に行けば、子供であっても既にひとりの消費者として遇される(「お客様は神様」扱いされる)のです。そして、みずからの趣向で自由に商品を選ぶことができるのです。もちろん、それは、ファッションだけに限った話ではありません。

その結果、子供達は、学ぶことや働くことさえも「どんな役に立つのか?」「どんな得があるのか?」などと経済合理性=費用対効果で考えるようになり、それに対して親や教師が納得できるような回答を与えることができなくなっているのだとか。何故なら、学ぶことや働くことは、本来そんな経済合理性で測ることができるようなものではないからだ、と著者は言います。

教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができないということにあります。(教育の逆説)

つまり、学ぶことや働くことについて、あらかじめ「どんな役に立つのか?」「どんな得があるのか?」と考えること自体、間違っているというわけです。著者は、「答えることのできない問いには答えなくてもよい」とまで言ってました。

私が思うに、消費するということは快楽なんですね。で、最初にそんな快楽を知ってしまった子供達が、学ぶことや働くことといった、ときに苦痛が伴うような地道な努力をバカらしいと思うようになったというのは当然と言えば当然ではないでしょうか。

もちろん、それを「自己責任」の一語で片付けるのは簡単ですが、むしろ、私は、消費社会という資本主義のメカニズムに翻弄される無防備な子供達の姿を考えないわけにはいきませんでした。その姿にはある種痛ましささえ覚えてなりません。
2007.04.04 Wed l 社会・メディア l top ▲