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まだ梅雨も明けてないというのに、渋谷も原宿も新宿もいっせいにバーゲンがはじまっています。何だか年々早くなっているような気がします。

渋谷の街も一見、バーゲン目当ての若者達で賑わっているように見えますが、地元で古くから店をやっている人に言わせれば、現実はかなり深刻なようです。先日、若者向けの週刊誌で「渋谷のスラム化」が特集されていましたが、何を今更という気がしました。

渋谷が一番輝いていたのは、やはり、80年代ではないでしょうか。私が渋谷に通いはじめたのもちょうどその頃です。その立役者はなんといっても70年代に本格的に渋谷に進出した西武・セゾングループでしょう。

右肩上がりの経済を背景に、斬新な広告と多彩な文化戦略で渋谷の街を一変させたのはご存知のとおりです。そして、その中心を担ったのが宇田川町に本社を構えていたパルコでした。

ところが、当時『アクロス』の編集長だった三浦展氏の「80年代消費社会論の検証」によれば、既に80年代からパルコの売上げは下降線を辿りはじめていたのだそうです。これは意外でした。

もっとも、当時、西武を担当していた私の中にも、「ホントにこれで儲かってるのだろうか?」という疑問がまったくなかったわけではありません。しかし、”池西(いけせい)”と呼ばれていた池袋西武の伝説的な売場である8階ギフトエリアやオープンしたばかりの渋谷ロフトの行け行けドンドンのお祭り騒ぎの中で、そういった疑問も片隅に追いやられていたというのが現実でした。

私の中の西武の印象は、よく言えば自由、悪く言えばいい加減といった感じでした。だから、三浦氏が書いていたように、パルコの文化戦略なるものも実は先日亡くなった元パルコ社長・増田通二氏の単なる思い付きや個人的な趣味にすぎず、元々戦略なんてなかったんだ、というのもわかるような気がします。

パルコの本社のみならず当時池袋にあった西武百貨店の商品部も、とにかくびっくりするくらい自由な雰囲気に溢れていました。私達は「喜多郎みたいな社員がゴロゴロいる」なんて言い方をしていました。仕入れの権限もほとんど売場の担当者に任されていましたし、(給料はそんなによくなかったみたいですが)社員達には働きやすい職場だったのではないでしょうか。

後年、ある雑貨チェーンの会社に商談に行ったら、西武でバイヤーをやっていた女性がいたのでびっくりしたことがありました。経営難に伴うリストラで転職したということでした。しかし、彼女はあきらかに窮屈そうでした。「すいません。西武と違って上の決済をもらわなければならないので時間をいただいていいでしょうか?」と申し訳なさそうに言ってたのが印象的でした。

ロフトの会合に出席したとき、関係者の挨拶の中に当時流行っていた経済人類学の用語がポンポン出て来るので、「何だ、これは」と思ったことを覚えています。また、あるとき、西武の担当者が「(雑貨の会社で)社員が20人を越すとダメになる会社が多いんですよね~」と言ってましたが、西武はそういった零細な業者でも商品さえ面白ければ偏見なく受け入れてくれたのです。ちなみに、日本ではまだなじみの薄かった海外のポストカードやラッピングなどを一番最初に興味を示したのも西武だったそうです。

三浦氏は、『アクロス』の定期購読者でもあったという上野千鶴子氏との対談集『消費社会から格差社会へ』の中で、かつての西武・セゾングループの総師・堤清二氏にはある種の破滅志向があったんじゃないか、と言ってましたが、もしかしたら西武・セゾングループには彼らオールドコミュニスト達の見果てぬ夢が込められていたのかもしれません。

渋谷ではかつて東急と西武の戦争が行われていると言われていましたが、では、果たして今、東急はホントに渋谷で勝利したと言えるのでしょうか。私には渋谷が益々個性が失われたつまらない街になっているように思えてならないのです。
2007.07.11 Wed l 東京 l top ▲