文藝春秋3月号


『文藝春秋』3月号に掲載されている芥川賞受賞作・川上未映子さんの「乳と卵」を読みました。受賞後、作者が「めさましテレビ」に出演したり週刊誌のグラビアに登場したりしているのを見るにつけ、どうせまた出版社の売らんかな主義による話題先行の作品だろうと思っていたのですが、それがどうして新しい才能を実感させられるようないい小説でした。女性であることの危うさが、大阪弁が混ざったバタ臭くそれでいてリズミカルな口語体風の文体によって効果的に表現されていると思いました。

それにしても、どうしてこんなにせつなくて哀しいのだろうと思いました。そこには、いろんなせつなさや哀しみがあるように思います。私は私であって私ではない。そんな存在の不確かさもまた、せつなくて哀しいものなのかもしれません。まして、女性の読者にとっては、文字通り「乳」と「卵」にシンボライズされた母子ふたりの女性の”焦躁”と”不安”は共有できる部分が多いのではないでしょうか。

一方、私は、この小説を読んで”言葉”ということを考えました。作者のインタビューでも話題になっていましたが、今の若者達はケータイ小説に代表されるような凡庸で規格化された言葉しか持ってないのです。それは、宇多田ヒカルの歌にもあるように、友達にもおせいじを使うような希薄な人間関係の反映でもあります。他人との関係において何よりも傷つくことを怖れる、そんなニート的日常の中で自己慰撫するだけの今の若者に、果たしてこの小説の言葉は届くのだろうか、と思いました。

受賞第一作の「あなたたちの恋愛は瀕死」が掲載されている『文学界』3月号に、いとうせいこう氏が「野蛮な本格」と題する川上未映子論を寄稿していましたが、その中で、この新しい才能の登場について以下のように評していたのが印象的でした。

 近代文学は終わったと言われて久しいが、ここに一人、その終わった文学の未来を担おうとする野蛮な人間が現れたのである。
 不可能に絶望しながら、しかし理念としてなおも明るい未来を目指すことは文学特有の態度ではないかと考えてみると、この新しい作家の存在感は増す。


あの選考委員達の顔ぶれを考えるとき、この小説が芥川賞を取ったこと自体、ひとつの事件だと言えるのかもしれません。
2008.02.28 Thu l 本・文芸 l top ▲