横浜や鎌倉など地元の人達と話をしていたら、みんなが口を揃えて「横浜って田舎だよね~」「横浜は地方都市だよ」と言うので私は面食らってしまいました。だって世間では横浜はオシャレな街だというイメージがありますし、地元の人達も同じような認識を持っているはずだと思っていたからです。地方出身者の必読書『東京人のしきたり』(KAWADE夢文庫)という本にも以下のような記述がありました。
しかし、現実には地元の人達は横浜がオシャレだとはちっとも思ってなくて、むしろ東京に行くとその都会ぶりに圧倒されるのだそうです。たしかに、東京は日本中のお金の半分以上が集まっているお化けのような大都会ですが、しかし、お金があることとオシャレだということは別問題です。そう反論しようと思ったものの、ふと、彼らの言うことも一理あるかもしれないと思いました。
横浜に来て常々思っていたことなのですが、横浜の人達は歩くのがとてものろいのです。そのため、万年工事中の横浜駅の人ごみの中を歩くたびにいつもイライラします。それに、エスカレーターに乗る際も横からどんどん割り込んで来るので、律儀に列の一番後ろに並んだ人はいつまで経ってもエスカレーターに乗れなくてバカを見るはめになります。地元の人間に言わせれば、それはマナーが悪いのではなく、マナーを知らないだけなのだそうです。そう言えば、横浜駅周辺を見るにつけ、たしかに周辺の郡部から買物などで中心部の繁華街に出て来る、ひと昔前の(”ファスト風土化”する前の)地方都市の光景と似てなくもありません。
ところが、そんな横浜の中にあって山手だけは別格なのです。彼らも「あそこは特別だよ」と言ってました。ある意味で、我々が求める横浜らしさが残っている唯一の場所と言ってもいいかもしれません。「山手って田園調布より高級かもしれませんね?」とおべんちゃらを言ったら、「当たり前だよ!」と語気を強めて言い返されました。

今でもフランス山やイタリア山という名前が残っているように、開港当時、山手は欧米人を中心とした外国人の居留地だったところです。かつてこの日本も欧米列強に植民地支配されていた時代があったんじゃないかと思うほど、当時、山手が別世界だったことは容易に想像できます。文字通り丘の上にはお屋敷(それも洋館の)が建ち並んでいたのですね。(もっとも洋館の大半は関東大震災で倒壊し、現存する建物は震災後建て直されたり保存のために移築されたものだそうです)


今でも山手の通りを歩くと、丘の下の喧騒が嘘のように静かで落ち着いた雰囲気を漂わせています(ただ週末は観光客が押し寄せるので騒がしくなるようですが‥‥)。そんな中に、フェリス女学院や横浜雙葉や横浜共立学園や横浜女学院など偏差値の高いお嬢様学校が点在しているのです。
今流行りのセレブという言葉にはどこか”成金(それも趣味の悪い!)”というニュアンスが含まれている気がしないでもないですが、山手のお屋敷にはセレブではないホンモノの上流階級が住んでいるような錯覚さえ覚えます。三島由紀夫が『午後の曳航』の舞台に山手を選んだのはなんとなくわかる気がしますね。

大昔の学生時代、後楽園球場で弁当売りのアルバイトをしていたとき、やはりアルバイトに来ていたフェリスの女の子と親しくなったことがありました。当時は今ほどお嬢様学校というイメージはありませんでしたが、そうか、あの子は石川町の駅から毎日坂道を上りここに通っていたんだな~と思ったら、柄にもなくちょっとセンチメンタルな気分になりました。
夏が近づいたある日、突然、「夏休みになったら軽井沢に遊びに行かない?」と言われて、九州の片田舎から出て来てアルバイトに明け暮れる毎日を送っていた私は、その軽井沢という言葉にめまいを起こしそうになりましたが、日常の中に山手や元町があった彼女にしてみれば、それは特別なことではなかったのかもしれませんね。げに環境とは恐ろしきかな。

丘の上と下はいくつもの坂道でつながっているのですが、帰りはケモノ道のような細い坂を下ることにしました。下界が近づいて来るにつれ何だか現実に戻っていくような気がしました。坂の途中、朽ちたまま野ざらしにされている廃屋がありました。そして、坂を下ると山手トンネルの手前に出ました。
麓の元町商店街はもともと居留地の外人向けの商店が発展してできたのだそうで、だから昔はあこがれの欧米文化を直接吸収できるオシャレな場所だったわけです。元町を歩いていると、犬を散歩している人を時折見かけました。そうやってわざわざ元町の商店街の中を散歩させていると、あたかも丘の上の住人であるかのように思ってしまいますが、しかし、私には彼らは絶対に違うだろうという妙な確信のようなものがありました。
(東京人が)実はかっこいいなぁとひそかに憧れを抱いているのが、横浜の人です。
東京人は一応自らを都会的だと思っているわけですが、なぜか横浜には頭が上がりません。その昔、ハマトラなる清潔感あふれるお嬢様スタイルが流行ったときは、タツノオトシゴのマークの刺繍が右胸に入ったフクゾーの服と、ぺったんこなミハマの靴、Kのロゴが付いたキタムラのバックを求めて東京から女子大生が大挙して横浜の元町に押し寄せました。フェリス女学院の学生は全員美人だと思っていた東京人もいました。
それ以来、東京人は横浜には一目置くようになったのです。それを知ってか知らぬか、横浜の通称ハマっ子も、「どこに住んでいるの?」と聞かれて、「神奈川」とけっして言いません。さりげなく、「ヨコハマ」と言います。たとえ家が横浜市の端っこのほうであってもです。
しかし、現実には地元の人達は横浜がオシャレだとはちっとも思ってなくて、むしろ東京に行くとその都会ぶりに圧倒されるのだそうです。たしかに、東京は日本中のお金の半分以上が集まっているお化けのような大都会ですが、しかし、お金があることとオシャレだということは別問題です。そう反論しようと思ったものの、ふと、彼らの言うことも一理あるかもしれないと思いました。
横浜に来て常々思っていたことなのですが、横浜の人達は歩くのがとてものろいのです。そのため、万年工事中の横浜駅の人ごみの中を歩くたびにいつもイライラします。それに、エスカレーターに乗る際も横からどんどん割り込んで来るので、律儀に列の一番後ろに並んだ人はいつまで経ってもエスカレーターに乗れなくてバカを見るはめになります。地元の人間に言わせれば、それはマナーが悪いのではなく、マナーを知らないだけなのだそうです。そう言えば、横浜駅周辺を見るにつけ、たしかに周辺の郡部から買物などで中心部の繁華街に出て来る、ひと昔前の(”ファスト風土化”する前の)地方都市の光景と似てなくもありません。
ところが、そんな横浜の中にあって山手だけは別格なのです。彼らも「あそこは特別だよ」と言ってました。ある意味で、我々が求める横浜らしさが残っている唯一の場所と言ってもいいかもしれません。「山手って田園調布より高級かもしれませんね?」とおべんちゃらを言ったら、「当たり前だよ!」と語気を強めて言い返されました。

今でもフランス山やイタリア山という名前が残っているように、開港当時、山手は欧米人を中心とした外国人の居留地だったところです。かつてこの日本も欧米列強に植民地支配されていた時代があったんじゃないかと思うほど、当時、山手が別世界だったことは容易に想像できます。文字通り丘の上にはお屋敷(それも洋館の)が建ち並んでいたのですね。(もっとも洋館の大半は関東大震災で倒壊し、現存する建物は震災後建て直されたり保存のために移築されたものだそうです)


今でも山手の通りを歩くと、丘の下の喧騒が嘘のように静かで落ち着いた雰囲気を漂わせています(ただ週末は観光客が押し寄せるので騒がしくなるようですが‥‥)。そんな中に、フェリス女学院や横浜雙葉や横浜共立学園や横浜女学院など偏差値の高いお嬢様学校が点在しているのです。
今流行りのセレブという言葉にはどこか”成金(それも趣味の悪い!)”というニュアンスが含まれている気がしないでもないですが、山手のお屋敷にはセレブではないホンモノの上流階級が住んでいるような錯覚さえ覚えます。三島由紀夫が『午後の曳航』の舞台に山手を選んだのはなんとなくわかる気がしますね。

大昔の学生時代、後楽園球場で弁当売りのアルバイトをしていたとき、やはりアルバイトに来ていたフェリスの女の子と親しくなったことがありました。当時は今ほどお嬢様学校というイメージはありませんでしたが、そうか、あの子は石川町の駅から毎日坂道を上りここに通っていたんだな~と思ったら、柄にもなくちょっとセンチメンタルな気分になりました。
夏が近づいたある日、突然、「夏休みになったら軽井沢に遊びに行かない?」と言われて、九州の片田舎から出て来てアルバイトに明け暮れる毎日を送っていた私は、その軽井沢という言葉にめまいを起こしそうになりましたが、日常の中に山手や元町があった彼女にしてみれば、それは特別なことではなかったのかもしれませんね。げに環境とは恐ろしきかな。

丘の上と下はいくつもの坂道でつながっているのですが、帰りはケモノ道のような細い坂を下ることにしました。下界が近づいて来るにつれ何だか現実に戻っていくような気がしました。坂の途中、朽ちたまま野ざらしにされている廃屋がありました。そして、坂を下ると山手トンネルの手前に出ました。
麓の元町商店街はもともと居留地の外人向けの商店が発展してできたのだそうで、だから昔はあこがれの欧米文化を直接吸収できるオシャレな場所だったわけです。元町を歩いていると、犬を散歩している人を時折見かけました。そうやってわざわざ元町の商店街の中を散歩させていると、あたかも丘の上の住人であるかのように思ってしまいますが、しかし、私には彼らは絶対に違うだろうという妙な確信のようなものがありました。