秩父林道

秩父・祠

朝早く起きて、久しぶりに秩父の山に行きました。横浜に引っ越してから秩父に行くのは初めてでした。ヒグラシの鳴き声が響く夏の木洩れ陽の中を息を弾ませて登って行くと、林道脇の樹木の間にぽつんと小さな祠が見えてきました。いつの頃からか、私は秩父に来ると必ずこの祠にお参りをするようになりました。一時は毎週のように来ていた時期もありました。今考えれば、何かにすがるように必死に手を合わせていた気がします。とどめもなく流れる汗をぬぐいながら祠の前に立つと、何だかなつかしい感情に包まれている自分がいました。

そして、あらためて田口ランディの「空っぽになれる場所」という文章を思い出しました。前も書きましたが、秩父に来るといつもこの文章を思い出すのです。

 かつて、私はいつも言葉に縛られていた。「好き」とか「嫌い」とか言って、自分の言葉に縛られていろんな人を憎み続けたり、必要以上に愛し続けたりしてしまった。一度「嫌い」と言うとその言葉に捕われて人を傷つけた。

 一度「好き」と言ってしまうと、その言葉に捕われて自分の本当の心が見えなかった。クリアすることができなかったのだ。空っぽになってみることができなかった。空っぽになれさえすれば、その瞬間瞬間に新しい思いが入るのに、それができなかった。

 空っぽにならないと、新しい閃きは入ってこない。空きがない心は、すべてを拒否してしまう。

 ある時、ひょんなきっかけで空っぽになった。屋久島で、すごく苦労して一人で山に登ったのだ。めちゃくちゃしんどくて、だあだあ汗をかいて、頂上まで行った時はへろへろで、とにかくもう歩かなくていいんだと、脱力してでんぐりがえったら、自分が本当に空っぽになった。

 そのとき、真っ青な空が自分の中に落っこちて来たように感じた。

田口ランディのコラムマガジン 2000.4.18「熊野、春の一日」)


やはり、自分は自分だと言うしかないのです。何だかんだと言っても自分の人生はこれしかない。この山奥の風景の中にいると、何があろうと微動だにせずに時を刻みつづける自然の偉大さを考えないわけにはいきません。キルケゴールが言うように、「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きに生きなければならない」のです。そのためにも、日々の生活で抱えすぎた感情をときに洗い流して自分を空っぽにすることも大切なのではないでしょうか。手の平で陽の光を遮りながら空を見上げると、どこまでも澄み切ったような空の碧さと森の緑のコントラストがとてもきれいに感じました。
2008.08.13 Wed l 日常・その他 l top ▲