
新聞に京都の「行く夏を惜しむ大文字送り」という記事が出ていましたが、たしかに九州でも8月のお盆の行事は夏の終わりを告げるイメージがありました。子供の頃、お盆に行われる盆踊りや花火大会を見ながら、「ああ、これで夏も終わりなんだな~」と思ったものです。それはなんだか祭のあとのさみしさのような感覚がありました。お盆をすぎると、海や川で泳ぐのも禁じられたものです。
昔は今のようにエアコンが普及してなかったので、夕方になるとよく近所の人達が家の前に出て、世間話に興じながら夕涼みをしていました。そして、そこにはいつも笑い声が絶えませんでした。私達子供も日が暮れるまで手足を真っ黒にして遊んだものです。遊び疲れて家に帰ると、家の前で立ち話をしていた母親が、「さあ、さあ、ご飯にしようかね」「早く手と足を洗いなさいよ」といつも決まって言うのでした。近所の人達もみんなニコニコ笑っていました。あの頃は、今より経済的に豊かではなかったけど、しかし、みんな明るかったように思います。
『文藝春秋』9月号に掲載されていた芥川賞受賞作・楊逸の「時が滲む朝」を読みました。天安門事件に象徴される“民主化世代”の波乱の人生を二人の若者を通して描いた小説ですが、作者自身も父親が文革によって農村に下放され、家族ともども辛酸を舐めた経験を持っているのだそうです。そんな常に政治に翻弄される中国人の人生を描きたかったのかもしれませんが、しかし、小説としては、正直言って薄っぺらだと思いました。「風俗小説」の域を出ていないというような選評がありましたが、むべなるかなと思いました。(もっとも、そう批判した当の選考委員自身が、いつも時流に阿るような「風俗小説」しか書いてないことを考えると、その選評は悪い冗談だと思いましたが‥‥)
それにしても、天安門事件の背景にある民主化要求の中身はこんなチャチなものだったのでしょうか。小説に書かれている内容はあまりにお粗末と言わざるを得ませんでした。それだけでもこの小説は興ざめでした。北京オリンピックの聖火リレーの際、沿道を埋めた留学生達が五星紅旗をうち振り「中国加油(がんばれ)!」と叫んでいる光景を見るにつけ、あの”民主化世代”はどこに行ったんだろうと思いましたが、しかし、個人的には、共産党の腐敗を告発し民主化を要求する壁新聞を貼った彼らは今でもどこかに存在しているのだと思いたい気持があります。
テレサ・テンや尾崎豊が出てくるのも、意地悪い見方をすれば、お約束だなという気がしないでもありませんでした。作者自身が実際に民主化運動の体験がないからなのか、作品に切実感がないのです。選考委員の小川洋子が書いているように、「浩遠(注:主人公)の苦悩は、内側に深まってゆかない」のです。それが「風俗小説」だと言われる所以なのかもしれません。一方、川上弘美は、「この小説に出てくる人たちを、どんどん好きになってしまった」とまるでカルチャーセンターの合評会のような無邪気な感想を述べていましたが、もしかしたらそれがこの小説にもっともふさわしい評価なのかもしれないと思いました。