Lacoste クリストフ・ルメール
   Lacoste  クリストフ・ルメール

私はもう20年渋谷に通っていますが、最初、目いっぱいおしゃれして楽しげに通りを闊歩している若い女の子達を見たとき、ふと、田舎にいた頃に顔見知りだった女の子達のことを思い出しました。彼女達はこうして街を歩く楽しさを知らないわけで、そう考えるとなんだかかわいそうに思えたのです。

東京にはこうやっていろんな街を歩く楽しさがあります。渋谷にも代官山にも下北沢にも原宿にも自由ヶ丘にも、それぞれの表情があり、それぞれの街の風景があります。それは、毎日車で家と職場を行き来するだけで、たまに国道沿いのジャスコに寄って買物をするような地方の生活では味わうことのできない楽しさです。

そして、街を歩く楽しさに付随しているのがおしゃれをする楽しさです。おしゃれをするというのは、単に経済的な意味だけにとどまらず、存在として解放されている、それだけ自由であるということではないでしょうか。ロラン・バルトは『モードの体系』(みすず書房)で、「モードは、人間の意識にとってもっとも重大な主題(《私は誰か?》)と『遊んで』いるのだ」と書いていましたが、おしゃれをするというのは、「どれだけ自由か」が試されていると言えるのかもしれません。

鷲田清一氏は、『ちぐはぐな身体-ファッションって何?』(ちくま新書)の中で、ファッションのはじまり(本質)は「着くずす」ことにあると書いていました。

ファッションというのは、既定の何かを外すことであり、ずらすことであり、くずすことであり、つまりは、共同生活の軸とでも呼べるいろんな基準や規範から一貫して外れているその感覚のことだ(略)


普段、街中で何気なく見過ごしている若者達のファッションも、たとえば、アクロスの定点観測や日本ファッション協会のスタイルアリーナなどであらためて見ると、それぞれの「自由の許容度」がうかがえて面白いなと思います。ファッションに「自分」とか「人生」とかに対する向き合い方が出ていて、ファッションにはそういった思想性があるのだということがよくわかります。ちなみに、この二つのストリートファッションの写真を見ると、やはり、アクロスの方がレベルが高いように思いました。

それにつけても、横浜ではこれみよがしに有名ブランドで身を固めた子は多いけど、自由におしゃれを楽しんでいるような女の子に出会うのは非常に稀です。それは、やはり、ジモト(地元)意識に見られるような「自分」や「人生」に対する緊張感のなさから来ているのかもしれません。単に街に刺激があるかどうかの問題だけではないような気がします。

私のようなきわめて保守的な人間から見ても、おしゃれをして街を闊歩している女の子達は無条件にいいな~と思います。少なくとも、宮台真司氏が言うように、ネットに引きこもり、ひがみ・妬み・嫉みでしか自分を合理化できないヘタレな男の子達に比べれば、はるかに溌剌と自分の足で時代を歩いてるという気がします。ときには壁にぶつかることがあっても、“希望”というのはそういった前向きな姿勢の中から生まれるものではないでしょうか。

どこをめくってもアンバランスばかり目に入ってくるぼくらの存在、それへの感受性が<衣服>という支えを呼び込むのだけど、衣服はそのアンバランスを裏返し、ぼくらの小さな<自由>に変えてくれる。その自由とは、時代が陰に陽に強いてくるあるスタイルに閉じ込め抗って、「こんなのじゃない、こんなのじゃない」とつぶやきながら、たえずじぶんの表面を取っ換え引っ換えする、あのファッション感覚のことだ。それは、人生の「はずれ」を「はずし」へと裏返す感覚だ。
(『ちぐはぐな身体-ファッションって何?』)

2009.01.19 Mon l 本・文芸 l top ▲