新港埠頭の船


別に「海を見ていた午後」を気取ったわけではありませんが、新港埠頭で港を行きかう船を見ていたら、ふと、ゴールデン・カップスのデイヴ平尾が昨年亡くなったことを思い出しました。ゴールデン・カップスについては、(以前に紹介しましたが)山崎洋子が『天使はブルースを歌う』(毎日新聞社)で詳しく書いています。また、同書の中でも長編小説『ハートに火をつけて!』が取り上げられていますが、鈴木いづみもゴールデン・カップスのファンでした。小説だけでなくエッセイなどでもよくカップスのことを書いていたのを覚えています。

本牧の米軍住宅が返還されたのが1982年だそうですが、戦後の横浜はアメリカの占領地としての側面もあったのです。そして、そんなアメリカ文化の影響を直に受けて育った横浜の少年達。その代表としてゴールデン・カップスがいたのでしょう。「長い髪の少女」はゴールデン・カップスのヒット曲として有名ですが、彼らは普段のステージではこの曲を歌わなかったのだとか。「長い髪の少女」はあくまでテレビ用の歌で、自分達が歌いたい歌ではないからというのがその理由でした。

そういった先進的な音楽性は、当時のグループ・サウンズにも影響を与えたようで、新山下の「タイクーン」で行われた追悼ライブには、沢田研二や岸部一徳やギタリストのCharなども駆けつけたそうです。そこには私達が知らないもうひとつ別の横浜の顔があるように思いました。

今年の元日の朝日新聞・神奈川版に、「還暦ジュリーは止まらない~横浜に20年」というインタビュー記事が出ていました。沢田研二が横浜に住むようになったのもデイヴ平尾からすすめられたからだそうです。沢田研二は、その中で、横浜について次のように語っていました。

■人情深い街で空が広い■

東京にいたころ、「本牧にすごいバンドがいる」って聞いて、テレビ出演の後、車を飛ばして見に行きました。
それがザ・ゴールデン・カップス。彼らはお客さんとすぐ近い所にいて、メンバーの1人はアンプの上に腰掛けながらやってた。「何なのこれ。カッコええ」って思いましたね。
カップスのデイヴ平尾さんらに「ジュリー、横浜に住めばいいじゃん」「みんなジュリーのこと大好きだしさ」とか言われて。そうやって住むようになって20年くらいになります。
横浜に暮らして思うのは、人情深い街で、空が広いなあ、ってこと。
最近、よく歩くようになって、発見も多いんです。谷戸坂からマリンタワーが一番よく見えるってことに気づきました。
地元では買い物にも行きますよ。本牧のつるかめランドからイトーヨーカドー、それからグルッペ本牧--。
ニューグランドのバーにもよく行きました。ダイスのうまい名物バーテンダーがいてね、サイコロ高く積み上げる技を何度も見せてもらいました。
横浜の歌もたくさん作ったなあ。ランドマークタワーとか、本牧ふ頭とかが歌詞に出てくる。本牧ふ頭あたりからは昔はしょっちゅう霧が出てたけど、最近は気候が変わったのかなあ。本牧通りを上がってくると、夜空に映える独特なハーバーライトのオレンジ色が見えるんですよね。
伊勢佐木、野毛、馬車道、長者町通り……。何回歩いても、よくわからないごちゃごちゃした通りって好きなんです。中華街もまだ隅々行けてない。

大みそかの夜はいつも、日付が変わる瞬間に「はい」って家の窓を開けるんです。中華街の爆竹の音、港の汽笛の音、近くの寺のちょっと高い鐘の音……。みんな聞こえてくる。遠くには八景島の花火も見えます。
もうどこに引っ越そうって思わない。横浜ですね。横浜でお墓を探さないとなあ、なんて思ってます。

(朝日新聞・2009年1月1日)


横浜に対する思いがよく出た記事だと思いました。横浜というのは、必ずしも巷間言われるような「おしゃれな街」などではないのです。平岡正明が言うように、場末感も含めてそれが横浜の魅力なのです。俄か市民の私には、正直言って、こういった横浜の魅力が充分わかっているとは言い難く、まだよそ者の意識で横浜を見ているところがあります。やはり、横浜というのは一歩踏み込んで中に入り、時間をかけないとわからないところがあるのかもしれません。少なくともみなとみらいのような皮相なイメージで見ていたら、見えるものも見えないような気がします。それが東京と違うところなのです。
2009.03.14 Sat l 横浜 l top ▲