
昨日、有楽町の東京国際フォーラムで行われた「親鸞フォーラム―親鸞仏教が開く世界」(真宗大谷派・朝日新聞主催)に行きました。私は、若い頃、浄土真宗大谷派の若い僧侶達が催す集まりに何度か出かけたことがありますが、なんだか当時の思いがよみがえってきた気がしました。
今でも『歎異抄』の一部をそらんじているくらい、若い頃は何かにつけ『歎異抄』を読み返していました。親しい友人に言わせれば、私はもともと「人間嫌い」の傾向があるそうですが、当時も、人間というのはどうしてこんなに汚たなくてえげつないんだろうというような人間不信の念に陥っていたように思います。もとより自分自身に対してもそうでした。
そんな中で、「わがこ々ろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」(第十三章)というような『歎異抄』の言葉に惹かれたのでした。私は”因果業報”という言い方が好きなのですが、親鸞を読むうちに、”業”あるいは”宿業”ということをよく考えました。
当時、親鸞の思想に新しい光を与えたと言われた吉本隆明の『最後の親鸞』(春秋社)を久しぶりに開いたら、次のような箇所に赤線が引かれていました。
人が勝手に解釈できるようにみえるのは、ただかれが観念的に行為しているときだけだ。ほんとうの観念と生身とをあげて行為するところでは、世界はただ<不可避>の一本道しかない。その道を辛うじてたどるのである。このことを洞察しえたところに、親鸞の<契機>(「業縁」)は成立しているようにみえる。
若い頃の切実な思いが垣間見えるようですが、要するに、”業”あるいは”宿業”というのは、単なる宿命論ではないということですね。人間というのは、知識や経験など自分のもっているものを総動員しても、、もうどうすることもできない、どうにもならないときがあります。そして、結果的に、そうせざるをえない(そうせざえるをえなかった)、そうならざるをえない(そうならざるをえなかった)ということがあります。人間という存在の根底には、そういったいわば”無明の闇”がひろがっており、それを”業”あるいは”宿業”というのではないでしょうか。
だから、親鸞は『歎異抄』の第一章で、かの悪人正機説の前段として、「念仏もうさんとおもいたつこ々ろのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあずかりしめたまふなり」と言ったのでしょう。念仏を唱えることが大事なのではなく、念仏を唱えようという心(気持)こそが大事で、しかも、それだけで充分なのだ、と言うのです。
むしろ若い頃より今の方が人間不信の念は強くなっているかもしれませんが、しかし、最近は『歎異抄』を開くこともとんとなくなりました。でも、最後は『歎異抄』さえあればなんとか生きていけるような気がしますね。いづれもう一度若い頃のようにくり返しくり返し『歎異抄』を読むときが来るのではないでしょうか。そんな気がします。