
定額給付金・ハイブリット車購入資金の助成・高速料金の千円均一・省エネ家電のエコポイントなど、いわゆる麻生内閣の景気対策を見るにつけ、かつて故・江藤淳氏が「国家・個人・言葉」(講談社学芸文庫『アメリカと私』所収)で書いていた、「倫理の源泉であることを引き受けたがらぬ国家は、ただ金をためろ、輸出を伸ばせ、というだけである」「個人は、したがって孤独であり、なにをもって善とし、なにを悪とするかを知らない。人はただ生きている」という文章を思い出しました。
さしずめこれをもじって言えば、「倫理の源泉であることを引き受けたがらぬ国家は、ただ金を使え、ものを買え、というだけである」「個人は、したがって孤独であり、なにをもって善とし、なにを悪とするかを知らない。人はただ生きている」と言うべきかもしれません。国家主義者ならずとも「この国は大丈夫か?」と思ってしまいます。しかし、かく言う私も偉そうなことは言えないのです。「唯物功利の惨毒」(夢野久作)におかされ、このところやたら散財しています。
「貨幣の物神性」という言葉がありますが、この高度資本主義社会に生きる私達は、常にお金に縛られて生きるていると言っても過言ではありません。新聞に出ている事件の多くはお金にまつわるものです。お金の悩みは尽きないし、ときにお金の悩みほど深刻なものはありません。わずか数万円のお金のために人を殺す者さえいるほどです。お金の前にはなにが「善」でなにが「悪」なんて考えることさえ無力な気がします。
誰しも「ああ、もっとお金があればなぁ~」と天を仰ぎ溜息を吐いたことはあるでしょう。「幸せはお金で買えると思いますか?」と質問されても、「そうは思いません」とはっきり答えることのできる人は少数ではないでしょうか。「人生に必要なものは、勇気と想像力とほんの少しのお金だ」というのはチャップリンの有名なセリフですが、この現代社会では「ほんの少しのお金」ではとても幸せになれそうもありません。
吉本隆明氏と中学時代の同級生だった川端要壽氏の『堕ちよ!さらば―吉本隆明と私』(河出文庫)という本に印象深い話があります。失業中であるにもかかわらず、友人や知人、親戚などに寸借詐欺まがいに金を無心しては競馬場通いをして、すっかり身を持ち崩してしまった筆者は、ある日、吉本宅を訪ね、意を決して三千円(昭和38年の話)の借金を申し入れたのだそうです。すると、吉本氏はこう言ったのだとか。
(前略)吉本は千円札を三枚、私の手に握らせると言った。
「俺のところもラクじゃない。しかし、この金は返さなくてもいいんだ。なあ、佐伯(注:筆者のこと)。人間ほんとうに食うに困った時は、強盗でも何でもやるんだな」
この言葉はなんだか親鸞思想を彷彿とさせますが、お金について、あるいは生きていくということについて、深く考えさせられるものがあるように思います。
お金に苦労したからお金が全てだと考えるのか、それとも、お金に苦労したからお金が全てではないと考えるのかでは、天と地の違いがあります。常にお金に縛られて生きることを余儀なくされているからこそ「お金が全てではない」と言いたい気持はありますが、しかし、そう言い切るには、まだまだ人生の修行が足りないのです。