最近、もの忘れがひどくなりました。老化現象がはじまったのでしょうか。右手の指先もずっとしびれたままだし、細胞がどんどん死んでいるのが目に見えるようです。ときどき背中がやたら痒くてならないのですが、友達にその話をしたら「それは老人性皮膚掻痒症だ」と言われショックを受けました。なんでも年齢に結び付けれられるのは悔しいですが(しかも、必ず「老」の文字が入る)、これも寄る年波には勝てないというわけでしょうか。

今日も郵便局で郵便物を出そうとしたら、ふと、代金引換郵便を持ってくるのを忘れたことに気づきました。「あっ、忘れた!」と素っ頓狂な声を上げたので、窓口の職員から「大丈夫ですか?」と言われてしまいました。

そのあと、伊勢佐木町の有隣堂に行きました。詩人の鈴木志郎康の詩で、亀戸(江東区)をうたった詩があったことを思い出し、無性に読みたくなったからです。

ところが、帰りの電車で、ほかの本は買ったものの、肝心な『鈴木志郎康詩集』を買うのを忘れたことに気づいたのでした。何のために有隣堂に行ったのか、自分でもただただ呆れています。

また、最寄り駅に着いてから、醤油を買わなければと思ってコンビニに寄ったのですが、帰宅してから今度は肝心な醤油を買うのを忘れたことに気づいたのでした。コンビニに入る前までは「醤油」「醤油」と頭の中でお題目のように唱えていたのですが。

こんな感じで、今日は肝心なものはなにひとつ買えないままでした。これは、前頭葉の神経細胞がまとまって死んでいる証拠なのかと思ったのですが、ものの本によれば、もの忘れを思い出すというのは脳が健康な証拠なのだとか。なんだかややこしい話です。

以前、大庭みな子が対談かなにかで、ものを忘れるというのは神様からのプレゼントだというような話をしていたのを読んだことがあります。ものを忘れることで人間は救われているのだと。なるほどそうかもしれません。ものを忘れることで苦悩から解放されるということはあるでしょう。認知症がすすんだお年寄りを見ていると、そう思う(そう思いたくなる)ことがあります。しかし、その一方で、忘れたいと思っていることに限って、記憶の根が深くなかなか忘れることができないという面もあります。もっとも、そうやって神様が気まぐれなのは、まだ若い証拠なのかもしれませんね。悲観するにはまだ早い?
2009.06.11 Thu l 日常・その他 l top ▲