
マスコミ風の言い方をするなら、下町の夏の風物詩、浅草のほうずき市に行ってきました。私は、ほうずき市は初めてでしたが、仲見世から浅草寺の界隈は大変な人出でした。お約束のマスコミもテレビ局各社が取材に来ていました。
また、外国人観光客の姿も目立ちました。欧米系の外国人はひと目でわかりますが、アジア系、特に台湾・韓国・香港・中国からの観光客は、人ごみに紛れたら日本人と見分けがつきません。それを考えれば、相当数の外国人観光客が来ていたのではないでしょうか。今や浅草も原宿の竹下通りなどと同じように外国人観光客で持っているようなものかもしれません(竹下通りの場合は大半はアジアからの観光客ですが)。
田舎の人間にすれば、ほうずきがひと鉢2500円と言われると「なんで?」と思いますが、ここは花の都・東京ですので致し方ないのかもしれません。子供の頃、よくほうずきを口で鳴らしたものですが、この鉢植えのほうずきもやはり口で鳴らすんだろうかと思いました。
浅草も久しぶりでした。私は、以前は仕事するのももっぱら車でしたので、都心の道路はそれこそタクシーの運転手ができるくらい精通しているつもりですが、他に江東区や墨田区や台東区といった、いわゆる下町の道路も結構詳しく、それくらいよく来ていた時期がありました。
浅草と言うと、どうしても永井荷風を連想しますが、荷風が通っていた頃の浅草は、(荷風自身は「昔のような江戸情緒がなくなった」と嘆いていたようですが)今と違ってまだワクワクするような華やかさがあったのではないでしょうか。
また、個人的には、故・竹中労氏が『黒旗水滸伝・大正地獄篇』(皓星社)で描くところの、「左右を弁別せざる時代」大正デモクラシー下の浅草にも遠く想像力をかきたてられるものがあります。当時、浅草の空にそびえていた十二階下の「青白き巣窟」(室生犀星)や浅草出身のニヒリスト辻潤と彼をめぐる「美的浮浪者の群れ」など、なんだか想像するだけでも蟲惑的なロマンを覚えます。
私は、浅草に来ると、「人生の幸せってなんだろう?」と考えることがあります。それは、野毛などと同じように、浅草も人生が露出している街だからかもしれません。浅草も個人商店の街なのですね。それは、渋谷や原宿や代官山や六本木やみなとみらいなどにはない浅草のよさです。だからこそ、浅草には本来の意味で”ハレ”があるように思います。荷風が晩年、孤独な生活の中で、浅草に日参したのもなんとなくわかる気がします。







