酒井法子

女優という生きものには「魔性」が潜んでいます。

すべての行動原理は「自からの利害得失」による、という「魔性」であります。 その女優が「好きになったから」という理由だけで女優が結婚するとはまったく考えられないのでございます。

女優は自分自身に惚れて惚れぬいて、自分しか愛せなくなった人間の就く職業でございます。 由に人前で他人の男とも平気でSEXが出来て、泣き笑い叫び歌えるのでございます。

女優とは人々からの「喝采」に魂を売り渡した人間であります。

「喝采」のためならなんでもやれる、のでございます。 淫売になれるどころか、必要なら人殺しさえやりかねない、それが女優であります。

だから普通の「お嬢さま」では絶対に「ならない」「なれない」のが「女優というお仕事」なのでございます。

( 「陣内と紀香の離婚の『真相』」)


これは、ポリスジャパンという決してお上品とは言えないサイトに連載されていた、AV監督の村西とおる氏のコラム(「帝王村西とおるの今日もナイスですね」)からの抜粋です。押尾逮捕や酒井法子に逮捕状のニュースを聞くにつけ、私はこの文章が思い出されてなりませんでした。

酒井法子が結婚する際も、やはり「大丈夫か?」という声がありましたが、当時は清純派アイドル=のりピーとサーファー=遊び人の旦那のイメージがそぐわないので、そんな声があがったのかもしれません。しかし、「女優というお仕事」が、村西監督の言うように普通のお嬢さまにはできない、カタギの仕事ではないということを考えれば、別にそぐわない話ではなかったように思います。酒井法子も足首に「一蓮托生」のタトゥーを入れているようですが、矢田亜希子も恋愛中に押尾学と一緒に入れた(と言われている)タトゥーはこれからどうなるんだろうかと思いました。

要するに、旦那だけがやさぐれで遊び人だったのではなく、美意識や価値観を共有していたという意味で「似たもの夫婦」だったのではないか。にもかかわらず、彼女達はあたかも自分を健気な妻、夫に裏切られて悲しむ妻であるかのように演じるのです。そう演じることができるのです。怪しげなレイブパーティに参加したりクスリをやったりしながら、一方で”ママドル”として理想のママを演じていたのも、ただそれが仕事だったからにすぎないのでしょう。

よく「魔性の女」なんて言いますが、同じ「魔性」でもシロウトのそれとはケタが違うように思います。夫が逮捕されたとき、「のりピーがかわいそう」と街頭インタビューでこたえていたような人々は、あまりにもお人好しと言わねばなりません。これは矢田亜希子の場合も然りです。

もっとも、”芸能の論理”というのが本来、市民社会の公序良俗とは真逆にあったことを考えれば、「だから女優(芸能人)なんだ」と言えなくもないように思います。さしずめ酒井法子は、交通事故で亡くなった実父の職業(前歴)やその育った家庭環境等を考えると、(市民社会の公序良俗と真逆にあるという意味で)文字通り「古典的な」芸能人だったと言えるのかもしれません。子供は親を選べないけど、哀しいかな、人間にとって育った環境というのは自分で思っている以上に大きなものです。「のりピーがかわいそう」なのは、むしろこれからでしょう。
2009.08.07 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲