
今年は太宰治の生誕100年を記念して、太宰作品の映画化が相次いでいますが、今日は「ヴィヨンの妻」と「パンドラの匣(はこ)」が同時に封切りでした。
今日は病院に行ったのですが、診察の順番を待つ間に原作の『ヴィヨンの妻』(新潮文庫)を読みました(青空文庫「ヴィヨンの妻」)。『ヴィヨンの妻』は何十年ぶりかで読みましたが、やはり若い頃に読んだときと今とでは全然印象が違います。
太宰本人を投影したとおぼしき夫の「大谷」が、なじみの飲み屋で店の仕入れ代金5千円を盗んだため、店の「おかみさん」と「ご亭主」が家にねじ込んできて、それに語り手である妻の「私」が応対する場面は、私も笑いをこらえることができませんでした。泌尿器科の待合室は、圧倒的に中高年の男性が多いのですが、みなさん「なに、この人?」みたいな感じで私の方を見ていました。
しかし、笑いをこらえることができなかったのは、私だけではないのです。
(略)わけのわからぬ可笑しさがこみ上げて来まして、私は声を挙げて笑ってしまいました。おかみさんも、顔を赤くして少し笑いました。私は笑いがなかなかとまらず、ご亭主に悪いと思いましたが、なんだか奇妙に可笑しくて、いつまでも笑いつづけて涙が出て、夫の詩の中にある「文明の果の大笑い」というのは、こんな気持の事を言っているのかしらと、ふと考えました。
坂口安吾は、太宰の道化を「M・C(マイ・コメディアン)」と呼んでいましたが、笑いも太宰作品の大きな特徴ですね。もはや笑うしかないのでしょう。
また、ラストの自虐をきわめたような会話の中に、そこはかとない哀しみが漂っている気がするのは、『ヴィヨンの妻』が玉川上水で「スタコラサっちゃん」こと山崎富栄と入水自殺した前年の1947年に書かれた作品だからかもしれません。ちなみに、同じ1947年には『斜陽』が、自殺した1948年には『人間失格』が書かれています。これをもって太宰は永遠の「スタア」になったのでした。
夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは当たっていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんてい書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけど、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事を仕出かすのです」
私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは。生きていさえすればいいのよ」
と言いました。
誤解する人も多いのですが、『ヴィヨンの妻』には”希望”なんてのはないのです。ただひとりよがりな生きる哀しみがあるだけです。
作中、「私」が二人の子供である「坊や」のことを、「わが子ながら、ほとんど阿呆の感じでした」と表現する箇所がありますが、実際に太宰に障害をもった子供がいたことを考えれば、こういった悪趣味ともいえるようなユーモアには、「家庭の幸福は諸悪の根源である」と嘯いた(うそぶいた)太宰の精一杯の虚勢が込められているように思いました。そもそも妻の「私」がけなげであればあるほど、夫の”ダメ亭主ぶり”が際立つこの小説自体、太宰一流の虚勢だと言えなくもありません。坂口安吾が、「太宰治情死考」で書いているように、太宰はホントは「サっちゃん」を軽蔑していたのです。にもかかわらず、「サっちゃん」と心中するのでした。もしかしたら、『ヴィヨンの妻』の「さっちゃん」も軽蔑していたのかもしれません。
坂口安吾は、人間には「どうしても死なゝければならぬ、などゝいう絶体絶命の思想」はなく、太宰の自殺も「芸道人の身もだえの一様相」のようなものだろうと書いていましたが、もとより人間というのは、生きる哀しみで死を選んだりするほどヤワな存在ではないのです。「死にたい」と思うことと実際に死ぬことは、まったく次元の異なる問題です。
金を無心に来た友人に「人間ほんとうに食うに困った時は、強盗でも何でもやるんだな」と言った吉本隆明ではないですが、にっちもさっちもいかなくなったらそれこそ強盗でも泥棒でもやって、地べたを這いつくばってでも生きていくのが人間ではないでしょうか。そうやって人生と格闘すべきだ(「不良少年とキリスト」)という坂口安吾に、そして、「人非人でもいいじゃないの」と言った『ヴィヨンの妻』の「さっちゃん」に、私は共鳴しますし、そこに人生の真実があるのだと思いたいですね。もっとも、私自身、そう言えるまで何十年もかかったのですが。