先日、FM横浜の「濱ジャズ」という番組を聴いていたら、茅ヶ崎在住の南佳孝がゲストで出ていて、「最近、音楽をやる情熱が薄らいできた」と言ってました。それを聴いて私は加藤和彦のことが頭に浮かんだのですが、どうして情熱が薄らいてきたかというと、「結局、なんだかんだ言っても売れてなんぼみたいなところがあるから」だと言うのです。問答無用の市場原理主義におおわれた昨今の風潮は、音楽もまた例外ではないのでしょう。

南佳孝の発言に対して、番組を担当しているDJのゴンザレス鈴木氏が、「本や音楽やファッションとかいったものがホントは時代を作っているんですけどね。それは変わってないと思いますよ」と言ってました。しかし、南さんは、「それはそうなんだけど、ただ、最近のファッションもどこがいいのかよくわからないよ」と言ってました。

私は、南佳孝の発言を聴いて、本や音楽やファッションといったような「文化」が時代を作っているという認識自体がもう通用しなくなっているのではないか、と思いました。たとえば、若い世代を代表する批評家(といっても団塊ジュニアですが)・東浩紀氏は、大塚英志氏との対談の中で、そんな状況を「データベース消費」という言葉で表現していました。

前近代では家族との関係が基本だった。つまり小さな物語しかなかった。ところが近代では、地域共同体や家族といった「小さな物語」の世界が崩れて、国家レベルの「大きな物語」が登場する。しかし、ポストモダンではその「大きな物語」も崩壊して、文化的なデータベースにリンクして自分の人格を形成するという方向になってきた。
(大塚英志+東浩紀 『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)


つまり、「どう生きるべきか」とか「この社会はどうあるべきか」とかいったような「物語」は必要とせず、人はただ文化資本が提供するデータベースにリンクして自己イメージを形成し、「興味のあるもの」に生理的に反応するだけの、そんな無機質な社会になったのだと言うのです。東氏は、それを別の言い方で「動物化」とも言ってます。明治時代、学生の間では「煩悶」という言葉が流行ったそうですが、もはや「自分とはなにか」と煩悶することなんてなくなったのでしょうか。

この高度情報社会では既にさまざまな個人情報がひとり歩きしていますが、実際に私達も、そのひとり歩きした個人情報のイメージに規定されている”自分”を実感させられることはよくあります。そして、そこで必要とされるのは、単なる定型=ステレオタイプな物語であって、南さんのように、自分らしいこだわりも愛着も必要ないのです。つまり、そこにあるのは、個人の自由な感覚ではなく、あらかじめ与えられた”定型”なのです。

話を大きくすれば、ひとは無意味なものでも感動できてしまうのだ、文化とは結局のところ脳の生理的反応のことなのだ、というパンドラの箱が開かれたんだと思います。たとえばいままで宗教的な悟りだと考えていたものが、ドラッグによっても実現可能だと分かってしまう。日本のオタク系文化もアメリカのハリウッド映画も、規模や見え方こそ違うけれどその基本的な変化は共有していて、オタクであれば萌え要素の組み合わせと物語の定型によって、ハリウッドであれば視聴覚的な刺激と物語の定型によって、かつて「感動」と呼ばれていたもののかなりの部分まで置き換えることができる、そういう信念のもとに動いている文化です(略)

南佳孝の発言もそういった時代の空気を感知した中から出てきたものではないでしょうか。加藤和彦も亡くなる前に、「もう世の中は音楽を必要としてないのかもしれない」と言っていたそうですが、それも同じような気持だったのかもしれません。そして、そういった「データベース消費」の時代の空気とネオリベラリズム(市場原理主義)を支える心性は見事に波長が合っているような気がしてなりません。それが今の時代というか、今の若者達のリアルな風景なのです。
2009.11.08 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲