文学界新年号

出かけるとき、駅の近くの花屋さんの前に人ざかりができていたのでなんだろうと思ったら、正月用の花やしめ飾りなどを買い求める人達でした。そういった光景を見るにつけ、いよいよ年の瀬もおしせまってきたんだなと思いますね。子供達も冬休みに入ったので、買物客も家族連れが目立つようになりました。ボーナスとは無縁な自営業で、尚且つ独り身の人間としては、なんだかこの時期はよけい孤独感を感じてなりません。

電車の中で、『文学界』(新年号)の東浩紀堀江貴文の対談「日本をすっきりさせるために」を読みました。この二人に共通しているのは、メタボな体形と東大卒という学歴とネオリベ信仰です。しかし、「古い固定観念からの脱却」とか「新しい仕組み」とか、さかんに「新しさ」を強調するわりには、その発想はきわめて陳腐なのです。これでは、理念として「戦後民主主義の欺瞞」をかかげた全共闘世代の足元にも及ばないと思いました。”批評”はあきらかに退化し陳腐化しているのです。

球団を買収しようとしたり、自民党(支持)から総選挙に出馬したりと、もともと発想自体にどうしようもない陳腐なものがありましたが、この対談でも彼らの陳腐さが目立っていました。そして、その陳腐さはゲーム的なお約束の世界=無邪気さにつながっています。彼らは、お受験の名門の筑波大付属駒場や久留米大付設から東大に進学して若くして成功したために、世の中というのをあまり知らないのではないでしょうか。だから、現実の話になると、途端にその”無邪気さ”を露呈するのかもしれません。グローバルな意識をもつためには世界のニュースを見ることだとか、介護の問題を解決するには若返りや老化防止の医療技術を発達させればいいんだとか、思わず口をあんぐりという感じでした。

堀江 もっと言うと、僕は、今は多くの人が労働していないと思っている。人間にとっての労働とは食物を生産することであって、それ以外は労働ではないのではないでしょうか。(略)
 正しいと思います。現代社会では、僕たちの生存に必要な労働の部分はすごく小さくなっている。ほとんどの人がそういった労働に携わらなくても生きていけるいようになっている。だから、会社に入らないで、だらだら生きていけばいいんです。好きなことをやってそれでお金をもらっているんだから、そうやって遊びなのか仕事なのかわからないようなことをどんどん創り出していけばいいと思う。
堀江 (略)
 ‥‥しかし、同時に思うのは、そうではない人たちもいるということです。遊びがそのまま仕事になるわけではない、記号操作でお金を生み出すことができない人たちは大量にいる。この人たちのケアが必要です。
堀江 それにはベーシック・インカムです。
 ええ、ベーシック・インカムを導入して、そういう人たちも生活の不安がなく、自分の好きなことをして生きられるようにすればいい。僕はそう割り切るべきだと思うんですけどもね。
堀江 子どもをつくらなくても、他にも方法はあると思うけど。ベーシック・インカムを導入すれば、夢破れた人たちも夢を追い続けることができるはずです。バンドじゃ食っていけないので就職したというような人は山ほどいるわけで、その人たちもずっとバンドを続けられる。


ニートのすすめなのでしょうか(笑)。だからといってデカダンスに生きるという気概も美学もあるわけではないのです。坂口安吾だったら、まずそのメタボな腹をすっきりさせろ、話はそれからだ、と言うかもしれません。世界の中心にあるのは人間であって、テクノロジーではないのです。だから、やっかいなのです。彼らに欠けているのは、このやっかいな存在である人間に対するまなざしです。テレビゲームではないのですから、現実の世界は必ずしも自分達が理解できる枠内にすっきりと収まるわけではありません。そんなことは当たり前の話でしょう。それにしても、こんなヨタ話が日本の文学になんの関係があるのでしょうか。出版不況でとうとう文春もヤキがまわったかと思いましたが。

帰りは時間があったので横浜駅まで行って、いつものようにみなとみらい界隈を散歩しました。赤レンガ倉庫では、毎年恒例のスケートリンクがオープンしていました。しかし、赤レンガの前の開国博の施設や本部があった建物はまだそのまま残っていました。解体費用もないのでしょうか。開国博は大方の予想どおり大赤字で、松下政経塾出身市長は突然辞職。「夜逃げ市長」などとヤユされる始末です。その「夜逃げ市長」も国政復帰を目論んで「日本回復」とかなんとかのたまっているようですが、まったくどいつもこいつもって感じです。

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