こちらは寒い毎日がつづいています。昨日も朝目がさめたら雪がふっていて、木々はうっすらと雪化粧をしていました。

相変わらずプチ引きこもりの日々がつづいており、このところ散歩もすっかりご無沙汰しています。それでというわけではないですが、ネットで買い物ばかりしています。

先日、某巨大ネットモールで、アメリカのブランドもののトートバックを買いました。小型のタイプで、普段の買物に行くとき、財布や携帯などを入れるのにいいんじゃないかと思って注文したのです。ところが、注文したあとで色を間違えていたことに気づいて、あわてて色の変更のメールを送りました。それが深夜の2時すぎでした。すると、すぐに返事がきたのです。「あれっ」と思いましたが、そうか、私と同じようなひとり会社かもしれないと思って、なんだか逆に親近感を覚えました。

そして、昨日、商品が届きました。ところが、中には商品のトートバックが入っているだけで、納品書もなにも入ってないのです。それに、商品が入っていたA4の封筒も社名などは印刷してなくて、宛先も差出人も全てボールペンによる手書きでした(鉛筆で薄く線を引いた上に丁寧な字で書いていました)。商品にも商品タグなどは一切付いていません。確証がないので断定はできませんが、「もしかしたら」と思いました。まあ、そうだとしても、その素人っぽさはどこか憎めない感じで、苦笑するしかありませんね。

話は飛躍しますが、もともと文化というのはコピーという側面もあるように思います。今でこそコピーは犯罪ですが、それはこの世の一木一草まで(それこそ人間の頭の中や心の中まで)商品経済=資本主義の論理が貫徹された結果にすぎません。批評家の福嶋亮大氏は、コピーとしての日本文化の本質を、三島由紀夫の『文化防衛論』(1969年)を引いて、次のように書いていました。

三島は一九六九年に出たこの本で、日本文化の本質はオリジナルとコピーがごっちゃになって見分けがつかないことだと言い、具体的には伊勢神宮を例に出しています。伊勢神宮は「式年造営」と呼ばれるシステムによって、20年ごとに元の建物を部分的に建て直し、それで老朽化に対処してきたわけです。したがって、伊勢神宮にはもはやオリジナルは残っておらず、ただコピーを擬似的にオリジナルと見なしているにすぎない。これはふつうに見れば、すごくだらしない建築だと言うしかない。しかし、三島によれば、むしろそうやってどんどんだらしなく変わっていけるところが日本のいいところなのであり、かつそれこそが「防衛」の対象となっていくわけです。要するに「ザ・日本文化」のようなものはない。文化をひたすら換骨奪胎していく「運動性」こそが日本文化なんだ、と。
Codec的文化防衛論


考えてみれば、日本の建築も音楽も文学も生活様式も全て西欧のコピーです。哲学や思想なんて、単に西欧のそれの翻訳(ひき写し)にすぎません。近世以前は、中国のコピーでした。三島が言うように、それを換骨奪胎して日本の文化にしてきたのです。今でこそ中国のコピー文化を笑っていますが、日本人の中にもつい最近まで「知的財産」なんていう概念はありませんでした。「猿真似」という言葉はもともと日本人を指す言葉でした。そう考えれば、暴論かもしれませんが、私達自身がヴィトンやシャネルやマイクロソフトに倣って、いちいちコピーに目くじらを立て、この日常をことさら不自由なものにする必要もないんじゃないかと思ったりします。

そう言えば、坂口安吾も『日本文化私観』の中で、次のように書いていました。

空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々(ごうごう)と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞(はじ)ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。

2010.02.19 Fri l 本・文芸 l top ▲