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身近では私を含めてツイッター(Twitter)をやっている人間はいませんが、世間ではツイッターがブームのようです。ただ、ツイッターのリアルタイム性や140文字というのは、どう見ても携帯向きのツールのような気がします。その意味では、ツイッターの流行はスマートフォンの普及と軌を一にしているような気がしないでもありません。

ところで、東浩紀氏は、朝日新聞(4/29)の論壇時評で、「滅びたと言われて久しい」「論壇」がネットを中心に「復活」しつつあり、その「突破口」になっているのがツイッターだ、と書いていました(「ネットが開く新しい空間」)。「いままでは愚痴の海に埋もれていた魅力的な言論が、ツイッターの出現によって可視化され組織化されている」のだと。

もっとも、ウェブ2.0やセカンドライフなどの登場の際も、似たような賛美論が飛び交ったのを私達は知っています。私も東氏の文章を読んで、思わず梅田望夫氏の「ウェブ進化論」を連想したくらいです。

そもそも「論壇」とはなんなのか、その発想自体がアナクロではないかと思いますが、それはともかく、東氏が言うように、ツイッターはホントにそんなにすごいものなのでしょうか。

『週刊ポスト』(5/7・14号)では、「いま沸き上がる『ツイッター亡国論』」と題して、WEBプランナーの中川淳一郎氏やITコンサルタントの宮脇睦氏らが、ツイッターを賛美する風潮に異議を唱えていました。

『ネットはバカと暇人のもの』(光文社新書)の著者でもある中川淳一郎氏は、ツイッター賛美の前提には「ネット性善説」があるが、その前提が間違っており、ツイッターのつぶやきも「バカと暇人」による単なる「暇つぶし」にすぎない、と言ってました。

(前略)10年以上この世界で仕事をしてきた私の経験からいわせてもらうと、圧倒的多数は「普通の人」か「バカ」なのです。もっというとネット言説の大半が「バカと暇人」による意見、つまり「集合痴」です。


かなり辛辣な意見ですが、ネットの現実を見ると、当たらずといえども遠からずという気がします。また、中川氏は、そもそもネットは単なる「生活補助ツール」にすぎない、と言ってました。たしかに、仕事や生活の中でネットはもはやなくてはならないものになりました。しかし、あくまでそれは補助的なツールだからです。それ以上でもそれ以下でもない。

宮脇睦氏も同様に、「ネット信仰」によるツイッター賛美を批判していました。

宮脇氏は、「ネット世界を支える強固な価値観として『アマチュア崇拝』」があり、ソーシャルメディア(ブログ・SNS・動画サイト・ツイッターなど)の信奉者達が説く、アマチュアだからこそ多様な言論が保障されているという理想論も、実態は逆だ、と言ってました。いちばん顕著なのがマスコミ批判です。ネットでは、既存のマスコミは「マスゴミ」と蔑視され、代わりにユーザーが情報発信するソーシャルメディアが持ち上げられるのが常ですが、「ソーシャルメディアがアマチュア崇拝と結びつくと、バイアスがかかった偏向メディアになりかね」ないのだそうです。

ソーシャルメディアの住人たちは、情報を対立構造でみる傾向が強くあります。黒か白か、有罪か無罪かといった善悪二元論ですべてを捉えてしまいがちなので、灰色も推定無罪もない。なぜ、そうなるかというと、二項対立のほうが事実が単純化され理解が容易になるからです。


その結果、嫌なものでも見なければならないリアル世界と違って、自分が欲するものだけを見れば済むネットでは、ある種の「全能感」が与えられ、「自分の理解を超えるものに直面すると、『オレがわからないということは、コイツが悪い』なんていうメンタリティ」が生まれるのだと。いわゆるネット特有の夜郎自大です。「極論すれば、ネットは克己のない世界、文章も意見も『楽な状態』の人間に迎合するので、”バカ”が加速しやすい」というのはわかりすぎるくらいよくわかる話です。

私もツイッターは、水は常に低い方に流れるネットの特徴を表わしたツールのひとつにすぎないように思います。ツイッターもブームが去ればセカンドライフの二の舞になるような気がしないでもありません。

いわんやツイッターが「新しい空間」を造りだし、ネットのすぐれた言論を「可視化」したり「組織化」するような可能性を持っているとはとても思えません。こういった見方にもフラット化=等価という「ネット信仰」があるように思いますが、それにしても、東氏のような若い批評家は、リアルな政治やネットのことになると、どうしていつも周回遅れのトンチンカンな捉え方をするのか。私は、むしろそっちの方が興味があります。

>>『ウェブはバカと暇人のもの』
2010.05.25 Tue l ネット l top ▲