
今日、野毛のにぎわい座の前で遭遇したホームレスの男性が、首から吉田カバンのポーターのショルダーバックを下げていました。それがすごくカッコよく見えました。そのあと、桜木町の駅前でヴィトンのモノグラム柄のトートバッグを下げている白髪の紳士に遭いましたが、ホームレスの男性に比べるとなんだか滑稽に見えて仕方ありませんでした。
吉田カバンがどっちかと言えば、「サラリーマンこそ人生だ」というような保守的な若者達のアイテムであることを考えれば、いわばこの「反語的」とも言える感覚はなんなのか。ふと、そんな屁理屈が頭に浮かびました。
ボードリヤールは、モノの使用価値ではなく、差異化を示す記号的価値が前景化される大衆消費社会の到来を告知したのですが、あれから40年、既にその「差異化」さえ意味をなくしつつあるということなのかもしれない、なんて思いました。
高級ブランドを身にまとい千葉や埼玉から銀座にやってきては、カメラに向かって「ピーコさん、お手やわらかにお願いしま~す」なんて言っている母娘を見ても、こっちはただ小っ恥ずかしくなるだけで、誰も素敵だとかうらやましいとか思わないのです(だから、あの企画も姿を消したのでしょう)。
むしろ裾がほつれ穴があいているジーンズや、退色してヨレヨレになった古着のTシャツの方がカッコいいというストリート(系)ファッションの全盛は、このような「差異化」の変質とそれをもたらした価値の相対化を物語っているようにも思います。
穴があいたジーンズやヨレヨレになった(ときに虫食いの痕まで残るような)Tシャツは、従来であればただのゴミだったはずで、それは”着くずす”というファッションの本質をも凌駕していると言えます。もしかしたら、そこにあるのは、徹底した価値の相対化、そういうラディカリズムの萌芽かもしれません。あのズボンをずり下げストリートを闊歩している若者達が、実はモードをけん引するブランドやデザイナー達を冷笑しているのだと考えれば、なんと痛快な光景なんでしょう。