
毎日、”猛暑”という言葉が飛び交っていますが、ホントに暑いです。もともと今年の夏がこんなに暑くなるなんて予報はなかったので、心の準備もできず文字通り”猛暑”にふりまわされている感じです。
とても昼間は外に出る気にならないので、最近は夜光虫みたいに、もっぱら日が陰ってからモゾモゾ動き出しています。今日も夕方6時すぎから池袋に行きました。池袋のジュンク堂書店で本を買うためです。ネットで在庫を調べたら、池袋のジュンク堂しか在庫が揃ってなかったからです。埼玉から横浜に引っ越しても、結局、本を買う場合は、池袋まで行くことが多いのです。なんともいやはやです。
最近、上原善広氏の『日本の路地を旅する』(文藝春秋社)という本を読んだら、久しぶりに中上健次の本を読みたくなったのでした。この『日本の路地を旅する』は、大阪の被差別部落で生まれた著者が、中上健次が「路地」と呼んだ日本全国の被差別部落を都合13年かけて訪ねて歩いた記録をまとめた本です。本年度の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのですが、受賞にふさわしいとてもいい本でした。
著者は、実際に表立って差別を受けたという経験はほとんどなく、「周囲の一般地区の人々から奇異の目で見られたであろうデモ登校『ゼッケン登校』でさえ、目立ちがリ屋でおっちょこちょいだった私にとっては、ちょっとしたお祭り騒ぎで楽しいものであった」というような、今どきの「路地」出身の青年なのですが、そういう青年が従来の解放運動の政治的な視点とは違った等身大の言葉で、消えゆく「路地」の記憶を書きとどめようという営為は、非常に貴重だと思いました。
一方で、著者は「路地の歴史は私の歴史であり、路地の悲しみは、私の悲しみである」と書いていましたが、この本の中には、「寝た子を起こし」「人の傷口に塩を塗りつけるような」取材に対する自責の念とともに、著者の個人的な感情や思いが、ルポルタージュにしては過剰とも言えるほど入っていました。
特に、性犯罪をくり返した挙句、借金を踏み倒して沖縄の八重山に逃げた実兄を訪ねて行く終章は、やや辟易するほど私情が露出していました。でも、そんな中で、もともと「路地」とは無縁であったはずの琉球・沖縄でも、あのエイサーが、実は「路地」の旅芸人達の伝統芸が進化したものだという独自の視点を提示しているのです。また、江戸時代は獣肉だけでなく、支配階級ではひそかに牛肉が食されていたというような特筆すべき話も書かれていました。こういったところがこの本のもうひとつの柱になっているように思います。
聖と賤、キヨメとケガレ、それは人間の歴史では表裏一体のものとしてあります。また、それは宗教的な意味合いだけでなく、政治的な支配⇔被支配の原初的なかたちでもあります。私は、『日本の路地を旅する』を読んでいるうちに、「この日本において、差別が日本的な自然の生みだすものであるなら、日本における小説の構造、文化の構造は同時に差別の構造でもあろう」(『紀州 木の国・根の国物語』)という中上健次の言葉を思い出したのでした。
私は幸いにも中上健次をほぼ同時代的に読むことができた世代ですが、当時は「なんだ、この露悪趣味は」というような半ば反発を覚えながら読んだ記憶があります。でも、今思えば、それが彼の文学の魅力でもあったのです。上原善広氏は、「中上によって被差別部落は路地へと昇華され、路地の哀しみと苦悩は、より多くの人のものとなった」と書いていましたが、そのためにも中上健次は、江藤淳が言うように、「ほとんどけものじみた世界」であるにもかかわらず、不思議と「哀切で、清冽な旋律」が流れているような、あの血と性と暴力に塗りたくられた「路地」の物語を書かねばならなかったのでしょう。
渋谷から池袋へは行きも帰りも地下鉄の副都心線を利用しました。副都心線の行き先には、「和光市」や「川越市」や「森林公園」などの表示がありました。なんのことはない、埼玉にいた頃、私がいつも利用していた路線がいつの間にか渋谷まで伸びていたのです。そして、さらに2年後には東急東横線・みなとみらい線につながり、「元町・中華街」まで直接行けるようになるのだそうです。なんだか皮肉な気がしないでもありません。
