
夕方、郵便局に行ったついでに、そのままま電車に乗って「馬車道」で下車。伊勢佐木町から横浜橋、そして横浜橋から黄金町、日ノ出町を経由して桜木町まで戻り、みなとみない、馬車道、横浜駅といういつものコースを散歩しました。
それにしても、伊勢佐木町のディープ化はますます進んでいます。そのうち、神奈川県警の大浄化作戦があるのかもしれません。手ぐすねひいて待っているような気がしないでもありません。
商店街を歩いている人達の半分くらいは外国人です。伊勢佐木町はチンピラまがいのアジア系の青年が多いのが特徴ですが、他に中南米系の白人とアフリカ系の黒人の姿も目立ちます。一種のステータスなのか、アジアのチンピラ青年達は、シルバーのラメで背中に絵や文字がプリントされた黒色のTシャツを着ていることが多いのですが、あの手のTシャツは昔、麻布十番がまだ陸の孤島だった頃、十番の紳士服店のショーウインドでよく見かけたことがあります。持ち手がついたワニ皮もどきのセカンドバックといい、社会学風な言い方をすれば、ヤンキー文化とは別にチンピラ文化というトライブもあるのかもと思いました。
伊勢佐木町の商店街にも、いくつかオープンカフェの店がありますが、表の席に座っているのは見事なくらい外国人ばかりです。彼らはなぜかいつも鋭い視線を通りに放っていて、一種異様な雰囲気をかもしだしていました。伊勢佐木町の食いもの屋に行くと、ホントにお客をなめたような店が多いのですが、それは従業員の多くがアジア系外国人の若者だからです。もちろん、私は排外主義者ではありませんので、外国人を雇うのが悪いと言ってるのではありません。ただ、客商売なのですから、「日本的おもてなし」の一端でも彼らに教えるべきではないかと思うのです。「賃金が安いならなんでもいい」という考え方こそ”外国人差別”と言うべきでしょう。
伊勢佐木町に集まって来る外国人の多くは、いわゆる出稼ぎ外国人労働者がドロップアウトしたものなのでしょう。神奈川県もまた、東京というメガロポリスの周縁域としての役割を担わされ、3Kの職場が集中していますので、伊勢佐木町のように、リストラなどで職を失った彼らが吹きだまり不良化する場所がどうしても生まれるのでしょう。寿町にも外国人の日雇労働者が多いそうですが、彼らもまた同じような事情にあるのでしょう。
また、伊勢佐木町一帯では、夕方になると、派手な格好をした風俗嬢達が香水のにおいをまき散らしながら出勤してくる光景に出くわしますが、彼女達の多くも外国人なのです。いかにもという感じの女の子がヘルスに入って行ったので、「ああ、こういうところで働いているのか?」と中をうかがっていたら、すかさず口髭をはやした男性従業員が出てきて、「旦那さん、どうぞ。いい子いますよ」と手招きされました。「いや、いや、見てただけですから」「見るだけでなく中に入ってくださいよ。サービスしますよ」という男性従業員の声をふり払いその場をあとにしましたが、「どうして、オレが”旦那さん”なんだよ」と思いました。
横浜橋の商店街になると、もっとディープ度が高くなります。考えてみたら、錦糸町や蒲田の一部に似たような雰囲気がありますが、都内でも千葉でも埼玉でもここまでディープ度の高い商店街はほかにないように思います。ただ、前にも書きましたが、横浜橋に関しては、私はこういったアジア的混沌みたいな街は嫌いではありません。
今、たまたま文庫化されたばかりの原武史著『滝山コミューン一九七四』(講談社文庫)を読んでいるのですが、横浜橋のような商店街は、ああいった民主主義幻想を露ほども疑わない”郊外”とは対極にあるものです。余談ですが、最近の若い評論家や学者達の多くが『滝山コミューン』のような郊外型民主主義の環境で育った世代であるという事実は、案外大きいように思います。まるで時計の針が40年も50年も戻ったような彼らの政治オンチぶりや啓蒙主義は、そういった郊外型の戦後民主主義幻想からきているような気がしてならないのです。
この酷暑のせいなのか、途中で胸がドキドキしはじめ、少し息苦しくなりました。熱中症ではないのでしょうが、このまま横になりたいというような気分でした。それで、みなとみらいの横浜みなと博物館の裏の芝生の上で、しばらく仰向けになりました。すると、海から吹いてくる風がとても心地よくて、気分も落ち着いてきました。
帰って万歩計を見たら、2万歩を超えていました。