最近、文学賞の新人賞で「盗作」事件がたてつづけに発生して、ちょっとしたニュースになりました。もっとも、今や文学なんて一部の好事家の手慰みのようなものでしかありませんので、あくまでそれは「ちょっとしたニュース」にすぎません。
ひとつは、文藝賞(河出書房新社主催)に内定していた作品が、「インターネット上のアイデアを無断で使っていたため」受賞を取り消されたという事件です。
もうひとつは、福岡県柳川市が主催する「白秋献詩」で、最高賞の文部科学大臣賞を受賞した秋田県の中学3年生の女生徒の作品が、インターネットの投稿サイトに掲載されていた作品の盗作だったことが判明して、受賞を取り消されたという事件です。この生徒の場合、いわば盗作マニアだったようで、ほかにも群馬県前橋市主催の「詩(うた)のまち前橋若い芽のポエム」というコンクールの中学生の部の最高賞や、第19回「詩と思想」新人賞(土曜美術社出版販売主催)の作品も盗作だった疑いがあり、いづれも取り消しになったそうです。
新聞の記事は、自分達も身に覚えがあるからなのか、なぜか妙にやわらかい表現をしていますが、要するにパクリです。今どきの若者らしくネットからコピペしていたのです。
それにしても、河出書房にしても土曜美術社にしてもいいようになめられたもんだなと思います。なにより編集者の怠慢は責められて然るべきでしょう。文藝賞なんてことさら若い書き手に受賞させて、その話題性で一発当ててやろうという魂胆がミエミエの賞でしたので、まあバチが当たったと言えばそう言えるのかもしれません。選考委員こそいいツラの皮ですが、はたして彼らにそこまでのプライドがあるかは疑問です。
とにかくここ20年くらいの新人賞は、若いというよりもはや「幼い」としか言いようのないような年端もいかない書き手の受賞が目立っていました。もしかしたらそこには、出版不況の中で、賞味期限の短いアイドルを粗製濫造してとりあえずその場をしのいでいくという、文壇アイドル=自転車操業説が実際に存在したのかもしれません。そういった編集者達のあざとい根性がシッペ返しを受けたという意味では、私にはある種痛快でした。
今の若者達にコピペは当たり前でしょう。それに、今どき文学なんてやろうという若者がいるわけがないのです。文芸誌なんてわずか数千部の実売しかないのに(実際はもっと少ないという説もある)、新人賞の応募だけがやたら多いのは、要するに腹にいちもつのニートやフリーターが多いからであって、それを文学青年や文学少女がまだ現存していると勘違いしているだけです。若者達にとって、ブログであれ論文であれ読書感想文であれ、パクリやコピペは当たり前なのです。そんな若者にとって、文学賞の新人賞にコピペして応募するなんてお茶の子さいさいで、おそらく「夢の印税生活」か懸賞に応募するくらいの感覚しかないのでしょう。
まったく、若けりゃいいのかと言いたいです。文学は若者だけのものなのか。ある夜、みんなが寝静まった深夜の病室の洗面所の薄明かりの下で、一心に本を読んでいた老女のことを思い出しました。「なにを読んでいるのですか?」と訊いたら、黙って表紙を見せてくれました。それは藤枝静男の『悲しいだけ』でした。私は、なんだか見てはいけないものを見たような気がして、なにも言えずその場を立ち去りました。編集者達は、こういったところにかろうじて文学が残っていることを知らなすぎるのです。
ひとつは、文藝賞(河出書房新社主催)に内定していた作品が、「インターネット上のアイデアを無断で使っていたため」受賞を取り消されたという事件です。
もうひとつは、福岡県柳川市が主催する「白秋献詩」で、最高賞の文部科学大臣賞を受賞した秋田県の中学3年生の女生徒の作品が、インターネットの投稿サイトに掲載されていた作品の盗作だったことが判明して、受賞を取り消されたという事件です。この生徒の場合、いわば盗作マニアだったようで、ほかにも群馬県前橋市主催の「詩(うた)のまち前橋若い芽のポエム」というコンクールの中学生の部の最高賞や、第19回「詩と思想」新人賞(土曜美術社出版販売主催)の作品も盗作だった疑いがあり、いづれも取り消しになったそうです。
新聞の記事は、自分達も身に覚えがあるからなのか、なぜか妙にやわらかい表現をしていますが、要するにパクリです。今どきの若者らしくネットからコピペしていたのです。
それにしても、河出書房にしても土曜美術社にしてもいいようになめられたもんだなと思います。なにより編集者の怠慢は責められて然るべきでしょう。文藝賞なんてことさら若い書き手に受賞させて、その話題性で一発当ててやろうという魂胆がミエミエの賞でしたので、まあバチが当たったと言えばそう言えるのかもしれません。選考委員こそいいツラの皮ですが、はたして彼らにそこまでのプライドがあるかは疑問です。
とにかくここ20年くらいの新人賞は、若いというよりもはや「幼い」としか言いようのないような年端もいかない書き手の受賞が目立っていました。もしかしたらそこには、出版不況の中で、賞味期限の短いアイドルを粗製濫造してとりあえずその場をしのいでいくという、文壇アイドル=自転車操業説が実際に存在したのかもしれません。そういった編集者達のあざとい根性がシッペ返しを受けたという意味では、私にはある種痛快でした。
今の若者達にコピペは当たり前でしょう。それに、今どき文学なんてやろうという若者がいるわけがないのです。文芸誌なんてわずか数千部の実売しかないのに(実際はもっと少ないという説もある)、新人賞の応募だけがやたら多いのは、要するに腹にいちもつのニートやフリーターが多いからであって、それを文学青年や文学少女がまだ現存していると勘違いしているだけです。若者達にとって、ブログであれ論文であれ読書感想文であれ、パクリやコピペは当たり前なのです。そんな若者にとって、文学賞の新人賞にコピペして応募するなんてお茶の子さいさいで、おそらく「夢の印税生活」か懸賞に応募するくらいの感覚しかないのでしょう。
まったく、若けりゃいいのかと言いたいです。文学は若者だけのものなのか。ある夜、みんなが寝静まった深夜の病室の洗面所の薄明かりの下で、一心に本を読んでいた老女のことを思い出しました。「なにを読んでいるのですか?」と訊いたら、黙って表紙を見せてくれました。それは藤枝静男の『悲しいだけ』でした。私は、なんだか見てはいけないものを見たような気がして、なにも言えずその場を立ち去りました。編集者達は、こういったところにかろうじて文学が残っていることを知らなすぎるのです。