
『日本映画[監督・俳優]論』(ワニブックス【PLUS】新書)を読みました。この本は、絓(すが)秀実氏のインタビューによるいわば萩原健一の日本映画論ですが、個人的には萩原健一と絓(すが)氏が組んで本をつくったということに、まずびっくりしました。私は、絓(すが)秀実氏の本は昔からけっこうマメに読んでいるつもりで、先日も『吉本隆明の時代』(作品社)を読み終えたばかりです。
「国をすてようと思ったことがある」と言う萩原健一について、絓(すが)氏は、「中上健次に似ている」と書いていました。「アメリカン・ドリームのような『欲望』ではなく、いかなる意味でも実現不可能な名づけえぬ『衝動(欲動)』」に二人の共通点があるのだ、と。
萩原は、欲動を演じられる数少ない俳優である。それは、誰もが感得している萩原の、あの過剰さが可能にしているものだろう。一般に萩原は欲望の過剰さが指摘される俳優だが、それは欲動という過剰さにほかならない。そして、中上健次もまた、欲望を描く作家ではなく、欲動の作家であった。
それにしても、この本で自在に発揮されている萩原健一の批評眼には目をみはるものがあります。つかこうへい氏は、かつて文芸誌で対談したあと、ショーケンの「感受性の質の高さに圧倒された」と書いていたそうですが、その気持はよくわかります。
たとえば、神代辰巳監督について、ショーケンはつぎのように語っていました。
これはあの人のいいところでもあるんだけど、名刀を持っているくせして、止めを刺せない優しさがあるんです。獲物を捕ってもさらに止めを刺せ、というんだ。でも刺せない。それがあの人の優しさなんだな。止めを刺せよ。もう死んでるも同然じゃないか。これ以上生かしておいたらかわいそうだよ。生き物なんだから。映画監督なら止めを刺さなきゃ。それが黒澤にも溝口(健二)にも小津(安二郎)にもあるんだよ。人間としての残酷さが。
まさに映画や文学の本質を衝いた言葉です。
最近、政治の季節を知らない口舌の徒の間で、「新左翼文化」なる言葉がまことしやかに流通していますが、この萩原健一の感性と知性もまた、絓(すが)氏が書いているように、60年代後半の政治の季節が生んだ時代の空気と無縁ではないのでしょう。
絓(すが)氏による巻末の「あとがき」風の文章に、”百年の孤独を生きる、現代の「危険な才能」”というタイトルが付いていて、「百年の孤独」なんて焼酎の銘柄じゃないかと思ったら、今年が大逆事件からちょうど百年という意味だったということを知りました。この本を読むと、なるほどと思います。そして、日本映画の腑抜けどもがショーケンを使えない理由もわかった気がしました。
>>ショーケンはカッコええ