愛という病

新年あけましておめでとうございます。

中村うさぎの『愛という病』(新潮文庫)を読みました。これもすぐれたフェミニズムの本だと思いました。先頃、上野千鶴子氏の『女ぎらいーニッポンのミソロジー』(紀伊国屋書店)も読みましたが、中村うさぎの方が断然面白く説得力があります。それは中村うさぎの言葉にはなによりリアルな体験が裏打ちされているからでしょう。買物依存でブランド品に1億円を使ったかと思えば、ホスト狂い、美容整形、デルヘル勤務とつづき、挙句の果てには、『セックス放浪記』(新潮社)などという本を出すほど男漁りまでした中村うさぎは、こう書くのです。

 私は、「女の欲望」のパロディだ。イタい恋も止まらない買い物もサイボーグみたいな美容整形も、私のすべての愚行は、女たちの欲望のデフォルメだ。そんな私が最後に求めたものは、「私」だったのだ。私は「私」を手に入れたくて、必死で生きてきたってわけよ。


多くの女は、欠落した自己に飢えている。オトコなんて、その自己の投影物に過ぎないの。だから女は「どんなオトコに愛されたいか」に固執する。それはオトコの個人性ではなくて、オトコの属性。私の場合は「若さと美貌」だけど、人によっては「知性」だったり「権力」だったり、まぁ、それぞれの欲望を反映したオトコの属性にこだわってるわけよ。つまり、彼女たちの選ぶオトコの属性は、彼女たちが自分自身に欲しがっている属性なのね。


上野千鶴子氏は『女ぎらい』の中で、「女は関係を求め、男は所有を求める」という小倉千加子氏の言葉を紹介していましたが、要するに、女性は「関係性を通してしか自己確認できない」ということなのかもしれません。中村うさぎは、その理由について、「女が自分を『他者の欲望の対象』として捉える生き物だから」だと言います。そして、ボーヴォワールの言葉を引用して、「私は、男の『自然体』が羨ましい。いつでもどこでも屈託なく『自分』でいられる自意識を、彼らはどうやって獲得したのだろう? やはり『女は女に生まれない。女になるのだ』という言葉は真実なのか?」と自問するのでした。女性は常にそういった不全感(「生き苦しさ」)を抱えて生きているのです。だからこそ、そこにみずからの女性性に対する違和感=ミソジニー(女嫌い)も生まれるのでしょう。

 何故、女は「愛し愛される事」に固執するのか? 他のすべてに充足していても、「愛し愛される相手がいない」という一点の欠落だけで、自分を価値のない存在のように感じてしまうのは何故なのか?
(略)
 これさえ解ければ、女たちは今よりずっとラクに生きられるような気がするのだ。「視られる性」としての自意識を過剰に発達させ、摂食障害や恋愛依存といった地獄にハマってしまう女たちも、この「愛し愛される事」への執着さえ解ければ、もつれていた糸がほどけるように、するりと袋小路から抜け出せるのではないか。


今、ネットに「男子よりダンス」というGoogleのCMが流れていますが、あれを見るたびに「そうだよな」と思いますね。私もよく女友達に「(大事なのは)恋人より友達だよ」と言ってましたが、これは、そんな「女としての袋小路」から抜け出す方途を探る本だと言ってもいいかもしれません。それがこの本がすぐれたフェミニズムの本だと思うゆえんです。

一方で、50歳をすぎて閉経した中村うさぎにも”老い”の影が忍び寄ってくるのはいかんともしがたいのです。中村うさぎは、率直にこう書いていました。

(略)私は怖い。自分が抗いようもなく変わってしまい、しかもそれが思春期の変化とは違って「成熟」や「成長」ではなく「老化」と「衰退」であることがわかっているのだから。なおさら絶望的な気分になる。これから、ゆっくりと、いろんなものを喪失しながら、私は生命の終わりへと歩んでいく、その道のりが怖い。


私は若い頃、年をとったら世間の人間から「エロじじい」と言われるような老人になりたいと冗談まじりに言ってましたが、実際はとてもじゃないけどそんな体力も気力も勇気もありそうにありません。でも、それでもできる限り無駄な抵抗をして、少しでも規格外の老人になりたいと思っています。その意味でも、これから”老い”と向かい合う中で中村うさぎがどう変わっていくのか、残酷なようですが、すごく興味があります。

>>『私という病』
2011.01.05 Wed l 本・文芸 l top ▲