
関東地方も真冬の寒さがつづいていますが、午後から伊勢佐木町のブックオフに行きました。ふと斎藤綾子の『結核病棟物語』(新潮文庫)をもう一度読みたいと思ったからです。ところが家の中をいくら探してもないのです。しかも、既に廃版になっているらしく、近くの本屋にも売っていませんでした。それで、ブックオフだったらあるかもしれないと思って出かけて行ったのですが、思ったとおり伊勢佐木町のブックオフに1冊ありました。
『結核病棟物語』は、作者の分身とおぼしき女子大生の主人公がある日突然、肺結核と診断され結核病棟に入院、そこで体験したことをつづった話です。若い女性らしくあっけらかんとした中にやはりどこかせつなさのようなものが全編にただよっており、そういう空気感は間違いなく青春のものだと思いました。
私も主人公と同じ二十歳のとき、1年間入院した経験がありますので、そこで描かれている療養生活の日常や年老いた患者達の生態、そしてその中に突然入ることになった若い患者の戸惑いは痛いほどよくわかります。作者は「あとがき」で、入院当初、「こんな体験はお金を払ったって買えませんよ」と大勢の人から励まされたと書いていましたが、そう言えば、私も同じようなことを言われました。「いい経験になるよ」と。
まあ「いい経験」だったかどうかは別にして、たしかに若い頃のそういった経験はいつまでも心の奥底に残るものです。退院して10数年後、同じ病棟に入院していた女の子から突然電話がかかってきて、びっくりしたことがありましたが、彼女もやはり同じような気持だったのかもしれません。
寺山修司は、人生で読書をする時間というのは限られていて、それは刑務所に入っているときか病院に入院しているときか学生時代しかないと言ってましたが、私も入院中は毎週近所の本屋さんがご用聞きにくるくらい本をよく読みました。ただ、同じ本を読むにしても、あの頃の感覚は今とは全然違っていたように思います。そして、『結核病棟物語』で描かれているのも、あの頃私が抱いたのと同じような感覚なのです。
「あんた、若いねェ」
ほうきに体を凭せ掛けて、爺さんはメガネの奥からショボショボした目で私を見下ろした。喋るたびに一本だけ残った長い歯に、真っ赤な舌がベロンベロン巻きつく。口の中に糸車がしまってあるようだ。きっとあの中は、魔物が住む洞穴みたいに腐敗臭が漂い、食べカスがヌルヌルとどくろを巻いているに違いない。妄想に身震いしながら爺さんの口から目が離せないでいると、何も喋っていないのに、
「なんだってェ?」
不気味に白いその顔が、スーッと擦り寄ってきた。プーンと老人の臭いがした。私は慌てて布団を引っ張り寄せ、眠ったふりをした。
かの堤玲子を彷彿とするようなこんな描写が随所に出てきますが、当時の風俗で言えば、おそらくワンレン・ボディコンであったであろう、イケイケドンドンの女子大生にすれば、結核病棟の日常は、まるで悪夢でも見ているような感じだったのかもしれません。そして、入院患者でありながら病棟の雑役をしている、その「粉を吹いたように真っ白な」顔をした爺さんから、やがて主人公は布団に手を入れられて身体を触られるようになるのでした。でも、そんな身の毛もよだつような行為に対しても、主人公は明確に拒否の姿勢を示しません。そういった主人公の姿勢はこの小説全体をおおっており、それがこの小説の大きな特徴です。
主人公は小田島という12歳年上の妻子ある男と不倫の関係にありました。しかし、主人公が入院中に、こともあろうに小田島は友人のリリカとも関係をもち、それをリリカから打ち明けられるのでした。それはそれでショッキングな出来事でしたが、しかし、それでもどこか冷めた目で自分が置かれた状況を見ている主人公がいます。入院患者のガテン系の青年を誘惑して、病棟の洗濯機置き場で身体の関係をもつのもそうですが、こういった”現代風な感覚”がわかる人とわからない人とではこの小説の捉え方は大きく違ってくるのではないでしょうか。
巻末の「解説」で、『思想の科学』編集委員としてこの小説を担当した黒川創氏が書いているように、この小説の大きなテーマに「死」があることはたしかです。退院した日、帰宅する途中にこんな描写があります。
(略) 横断舗道を渡っていたら、向こう側からびっこを引いた爺さんがやってきた。杖をついて肩で弾みをつけ、不自由な片足をブランブラン引き摺りながら歩いている。動かないその足は、爺さんにとって厄介な物という感じだった。こうして徐々に体の至る所が厄介になっていき、最後は自分を動かすこと自体厄介になるんだろう。死ぬってのはきっとそういうことなんだ。
入院していると否応なく「死」の現実に直面しなければなりません。隔離病棟で出会った「クマのようなゾウのような」亀山ミツも、「すすけたズロースみたいなヨボヨボの顔」の田辺八千代も、やがて亡くなったことを知るのですが、そのときの主人公にはイケイケドンドンの女子大生の姿も”現代風な感覚”もありません。ただ涙を流し「ワラワラ震えながら茫然と」主のいなくなった病室を眺めるだけなのでした。やはり「死」というのは、なによりも重い永遠のテーマなんだなと思いました。
ただ、私は、この小説にはもうひとつ別のキーワードがあるように思いました。それは、「涙」です。小説の中でも主人公が涙を流す場面がよく出てきますが、その「涙」がこの小説にただようせつなさにつながっているように思います。
「悪かったね」
若い技師は目を伏せたまま済まなそうに言うと、前と同じようにてきぱきと作業に取りかかった。撮影する位置をミリ単位で変えるために、一々奥から出て来ては機械を操作する。それまで気がつかなかったが、若い技師は左の足を引き摺っていた。大きな体をヒョコヒョコさせて、行ったり来たりする姿を見ているうちにいつの間にか私はポロポロ泣き出した。なぜ泣いているのか自分でもよくわからない。当てつけがましいと思われるのが嫌で必死に涙を拭ったが、そんなことをすればするほど涙は止まらなくなった。悔しいのでも悲しいのでもない。ただ泣きたかったのだ。
この場面には、レントゲン撮影をする際、スケベエな別の技師から一糸まとわぬ姿になるように指示されたという前触れがあるのですが(だから、この若い技師は「悪かったね」と謝っているのですが)、「悔しいのでも悲しいのでもない」「ただ泣きたかった」という、その「涙」もやはり青春のものではないでしょうか。
ありきたりな言い方をすれば、若いときにしか出会えないこんな青春小説もありだと思います。そして、その読後感は澱のようにいつまでも心の奥底に残っていくのです。