
先日第144回芥川賞を受賞した西村賢太の『苦役列車』(新潮社)を読みました。
主人公の北町貫太は、東京の片隅の安アパートで、孤独で鬱屈した日々を送っている19歳の少年です。彼は、日雇い労働で生計を立てているのですが、わずか数万円の家賃を滞納しては追い立てを食らうような自堕落な生活をくり返しています。そんな貫太が派遣先の冷凍倉庫で、やはり荷役仕事のアルバイトに来ていた専門学校生・日下部と知り合い、同年代のよしみで急速に親しくなります。しかし、貫太の妬みと僻みと嫉みに満ちた性向のために、せっかく知り合った日下部も貫太を疎ましく感じはじめ徐々に離れていくのでした。そんな交遊の過程を描いた、多分に私小説の要素が入った作品です。
貫太の妬みと僻みと嫉みの性向の背景にあるのは、小学生のときに父親が犯した事件(性犯罪)があります。そのために両親は離婚して、それこそ追い立てられるように転居を余儀なくされ、貫太も高校進学をあきらめたのでした。そんな貫太にとって、日下部と知り合ったことはわずかな”希望”だったのかもしれません。しかし、それも歪んだ性向のために、みずからの手で摘み取ってしまうのでした。
作者の西村賢太氏は、戦前に芝公園で凍死した孤高の作家・藤澤清造に私淑しているそうですが、この作品も古い私小説のスタイルをとっています。そのためか、特にこの作品では漢語調の古めかしい表現が多く、やや辟易するところがありました。また、登場人物の台詞にしても時代がかったもの言いが多くて、「それはないだろう」と思わず突っ込みを入れたくなりました。それに、主人公の北町貫太の台詞の一人称が「ぼく」となっていましたが、やはりそれは「おれ」だろうと思いました。そういった違和感は至るところで感じました。
でも、にもかかわらず、不思議と魅力のある小説です。どこか惹かれるところがありますし、読後感がいつまでも残ります。私達もまた「孤独死」を覚悟しなければならないような人生を生きているのです。そう考えるとき、この小説の世界は私達の前で大きく広がっていく気がします。
私は、この小説を読みながら、やはり中上健次の『十九才の地図』を連想しないわけにはいきませんでした。『苦役列車』と一緒に収録されていた「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」という、文学賞を渇望するいじましいほど正直で自虐的な心情をつづった短編の中に、「芥川賞の選考委員の乞食根性の老人」という表現がありましたが、そんな文壇政治のガンのような「乞食根性の老人」達に認められ受賞するに至った作者がこれからどうなるのか、興味があります。
中上健次には「熊野」があり「路地」がありました。そのために「乞食根性の老人」の呪縛から逃れて、独自の文学世界を築くことができたのです。そう考えると、本人も言ってましたが、この作者の場合、やはり「父親」を書くしかないように思います。非情な気がしますが、それが文学に生きる人間の定めなのです。西村賢太がそういう”定め”を感じさせる作家であることはたしかです。