神奈川でも地震に伴う混乱がつづいています。つい数日前までいつものように棚に並んでいた商品が忽然と姿を消したのでした。

米・パン・カップ麺・トイレットペーパー・乾電池などが姿を消しました。スーパーやコンビニなどに行っても棚はガラガラで、ひとつとして残っていません。最近はコンビニの弁当も品薄気味です。

我が家も米がなくなったので、昨夜は深夜の散歩のついでに何軒かのコンビニをまわりましたが、影すらありませんでした。そんな中、周辺の道路が渋滞するほど客が殺到して、ちょっとした騒ぎになっているところがありました。ひとつはドン・キホーテです。スーパーが通常より早く店じまいしているため、迷える人々が深夜営業のドンキに殺到しているのです。もうひとつは、ガソリンスタンドです。関東近辺ではガソリン不足も深刻で、早朝にガソリンが入荷するという噂を聞きつけた車が、そうやって前夜から国道に長い行列を作っているのでした。

買いだめによって、このようなパニックがおきているのです。特に昼間、時間をもてあましている中高年のおっさんやおばさんたちが、アリが餌を運ぶように、せっせせっせとスーパーをまわって買いだめしている姿が目につきます。これは「計画停電」に対する過剰反応だけではないように思います。被災地へ支援にまわる前に自分達の分を確保しなければという心理がはたらいているような気がしてなりません。「被災地のことを考えれば、買いだめは慎まなければならない」と考えることは、そんなにむずかしいことなのでしょうか。

知り合いの若者が「スーパーでおばさん同士がカップヌードルを取り合ってケンカしてましたよ。アホでしょ」と言ってましたが、若者の方がはるかに真っ当です。海外のメディアでは略奪もない日本人のモラルの高さが称賛されているそうですが、そう言われるとなんだか面映ゆい気がしないでもありません。略奪はないけれど買いだめはあるのですから。

社会学ではフランスの「オルレアンの噂」が有名ですが、やがてそれはユダヤ人差別と接続され大衆扇動に転化したのでした。日本でも関東大震災の際に悲惨な朝鮮人虐殺がありましたが、それもまったく同じ構造でした。井戸に毒を入れたという噂に煽られ、朝鮮人や朝鮮人に間違われた日本人の頭上に斧を振りおろしていったのは、なにも特別な人達ではありません。普段は東京の下町に住む良き夫であり良き父親であるような、ごく普通の「善良」な人々だったのです。それが非常時の不安心理の中で、彼らの日常性の本質(「テロルとしての日常性」)がキバをむいて露出したのでした。私たちは決して「善良」なんかではないのです。ただ差別と排除の力学によって、そのように仮構されているにすぎないのです。
2011.03.15 Tue l 震災・原発事故 l top ▲