今日、横浜では桜の開花宣言があったそうです。しかし、やはり今年は桜どころじゃないかもしれません。花見の話題なんてほとんど耳にすることはありません。

朝、ひとつ手前の駅で下車して、自宅の最寄り駅との間にあるスーパーに寄りました。ティッシュが底をついたからです。花粉症の人間にとって、ティッシュがないのはつらいものがあります。幸いにも数個残っていましたので、どうにか手に入れることができました。

午前10時すぎの開店間際でしたが、既に店の周辺には自転車がびっしり止められ、駐車場もほとんど満車の状態でした。店内も買物客でごったがえしており、既にレジには行列ができていました。

買物客が群がっている一角があったのでなんだろうと思ったら、ペットボトルの水を販売しているコーナーでした。でも、乳児がいるような若い母親は皆無で、大半は中高年の専業主婦と既にリタイアしたとおぼしき初老の夫婦でした。知り合いの共稼ぎ家庭の奥さんが、「仕事が終わってスーパーに駆け込んでも、めぼしいものは売り切れている」と嘆いていましたが、たしかに平日、午前中の早い時間にスーパーに行けるのは、時間に余裕のある人たちなのです。そして、我先に品薄の商品を買い漁っていくのです。

枝野官房長官が記者会見で、水は「乳児のいる家庭に譲っていただきたい」と言ってましたが、そんな”思いやりの精神”なんて夢のまた夢のようです。「バカ正直なことをしていると自分が損をする」というのが彼らの本音なのでしょうが、考えれみれば、彼らのエゴは今にはじまったことではないし、そもそもそういったエゴは彼らに限った話ではないのです。

横浜では「電車の座席に座ることが人生の目的のような人たち」がホントに多くて、彼らは電車が駅に着いても降車口をふさぐように立っていて、おりる人がいてもお構いなしに目を血走らせて電車に乗り込んでくるのですが、それはなにも中高年の人たちばかりではありません。それこそ老若男女を問わず、サラリーマンでもOLでも小学生でも高校生でも大学生でも同じです。

また、駅のエスカレーターでも横からどんどん割り込んでくるので、列のうしろに並んでいる正直者はいつまでも経っても前に進まないという、まるで北京や上海のような光景も横浜ではおなじみです。そういったエゴまる出しの日常を考えれば、スーパーの買いだめなんて驚くにあたいしないのかもしれません。

しかし、私は、これを「いいか悪いか」で見ることはできないように思います。もともと人間というのは、そういうものではないかという気持があるからです。坂口安吾は、敗戦直後の焼け跡闇市を前にこう言い放ったのでした。

 戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。(『堕落論』)


私は、この言葉に今の状況にも通じるリアリティを覚えてなりません。

2011.03.30 Wed l 震災・原発事故 l top ▲