ある日突然、家族を失い、友人を失い、住む家を失い、仕事を失い、なにもかも失った被災者たちの悲嘆と絶望は、私たちが想像する以上のものがあるでしょう。私の伯母も阪神大震災で被災して、翌年、仮設住宅で亡くなったのですが、特に家族のいない高齢者や経済的にハンディを背負った人たちの「生活再建」はきびしいものがあるはずです。
震災からひと月が経ち、案の定、ワイドショーやニュース番組のキャスターたちの物見遊山がはじまっていますが、必ずしも彼らが口にするような「復興への歩みがはじまっている」「前を見て歩きはじめている」状況ばかりでないことは言うまでもないでしょう。
仮設住宅も2年間の期限付きだそうで、その2年の間に生活を再建しなければならない(仕事を見つけて住む家も見つけなければならない)のです。それがどんなにきびしいものであるかというのは、自分に引き付けて考えればわかるはずです。
前に、当面の生活費を引き出すために、再開した郵便局のATMに並んでいる被災者の姿がテレビに映っていましたが、私はそれをみながら、じゃあ、引き出すお金のない人はどうするんだろうと思いました。
阪神大震災のときにも感じたのですが、「復興」や「生活再建」には、鄧小平の先富論と同じような「できる人から先にはじめる」という考えがあるように思います。もとよりそれが役所の発想なのですね。しかし、そういった発想の先には、落ちこぼれていく人たち、もっときつい言い方をすれば、置き去りにされる人たち(切り棄てられる人たち)が出てくるのは当然ではないでしょうか。さすがに誰も「自己責任」なんて言葉は使いませんが、でも、そこにもやはりどこかに、「自助努力」という名の「自己責任」論が存在しているように思えてならないのです。
福島第一原発の問題も同様ですが、マスコミが流布する根拠なき楽観論(のようなもの)や感動秘話などによって隠蔽される、”もうひとつの現実”があることを忘れてはならないでしょう。
行政も世間も個人には冷たいものです。募金の盛り上がりや「かんばろう!ニッポン」キャンペーンがあっても、その現実には変わりがありません。しかし、わざとらしくブランドのスーツからパーカーに着替えて物見遊山するキャスターのなかで、そういった”災害弱者”の声を拾い上げる人間なんて誰ひとりいないのです。
震災からひと月が経ち、案の定、ワイドショーやニュース番組のキャスターたちの物見遊山がはじまっていますが、必ずしも彼らが口にするような「復興への歩みがはじまっている」「前を見て歩きはじめている」状況ばかりでないことは言うまでもないでしょう。
仮設住宅も2年間の期限付きだそうで、その2年の間に生活を再建しなければならない(仕事を見つけて住む家も見つけなければならない)のです。それがどんなにきびしいものであるかというのは、自分に引き付けて考えればわかるはずです。
前に、当面の生活費を引き出すために、再開した郵便局のATMに並んでいる被災者の姿がテレビに映っていましたが、私はそれをみながら、じゃあ、引き出すお金のない人はどうするんだろうと思いました。
阪神大震災のときにも感じたのですが、「復興」や「生活再建」には、鄧小平の先富論と同じような「できる人から先にはじめる」という考えがあるように思います。もとよりそれが役所の発想なのですね。しかし、そういった発想の先には、落ちこぼれていく人たち、もっときつい言い方をすれば、置き去りにされる人たち(切り棄てられる人たち)が出てくるのは当然ではないでしょうか。さすがに誰も「自己責任」なんて言葉は使いませんが、でも、そこにもやはりどこかに、「自助努力」という名の「自己責任」論が存在しているように思えてならないのです。
福島第一原発の問題も同様ですが、マスコミが流布する根拠なき楽観論(のようなもの)や感動秘話などによって隠蔽される、”もうひとつの現実”があることを忘れてはならないでしょう。
行政も世間も個人には冷たいものです。募金の盛り上がりや「かんばろう!ニッポン」キャンペーンがあっても、その現実には変わりがありません。しかし、わざとらしくブランドのスーツからパーカーに着替えて物見遊山するキャスターのなかで、そういった”災害弱者”の声を拾い上げる人間なんて誰ひとりいないのです。