
あのキャンディーズのスーちゃんこと田中好子が亡くなったというニュースにはびっくりしました。しかも、20年間も乳ガンの治療をしていたなんてさらにびっくりでした。
今は二人に一人がガンにかかる時代なので、私のまわりでもガンの闘病をしている人が何人かいますが、ホントにみなさん立派です。田中好子も病気のことを微塵も見せなかったので、まわりの人たちも病気のことは誰も知らなかったのだとか。私の知り合いもガンの手術するために入院していたら、たまたま他の人のお見舞いにきていた近所の人と廊下でばったり会って、ガンのことがバレたと言ってましたが、そうやって内緒にするケースが多いのです。
今日、私は半年に1回のガンの定期健診に行ったのですが、病院ではちょうど乳ガンの医学講座がひらかれていました。乳ガンの場合、治癒率が高いイメージがありますが、20年間も再発をくり返していたというのは、精神的なストレスだけでも相当なものがあったはずです。それでもまわりにさとられずに、明るく仕事をこなしていたというのは、何度もくり返しますが、ホントに立派ですね。それは、精神的に強いというだけでなく、やはりしっかりした死生観をもっていたからではないでしょうか。
たまたま今、ホリスティック医学を実践している川越市の帯津三敬記念病院の帯津良一医師(名誉院長)と作家の五木寛之氏の対談集『生死問答』(平凡社ライブラリー)を読んでいるのですが、最近、私も自分の死についてやたら考えるようになりました。最期をどういうふうに迎えるか、というのはすごく切実な問題です。お二人が口をそろえて言っているように、いわゆる老人病院のベットの上で、体中に管を通され、経菅栄養でかろうじて生きながらえているような、そんな最期は私も嫌だなと思います。しかし、自分ではどうにもならないこともありますので、成り行きでそうなるかもしれません。その場合、どうやって自分の死を受け入れればいいんだろうと思ったりします。
理想はやはり、孤独死です。いつもの朝がきていつもの夜がくるいつもの日常のなかで、誰にも知られずにひっそりと、そして苦しまずに死ねたらいいなと思います。『生死問答』でも言ってましたが、野生の動物が死期が近づくと群れから離れて姿を消す習性は、人間のなかにもあるような気がします。むしろ家族に看取られて死ぬのは、この世に未練を残すことになるので、苦しいのではないでしょうか。
死は永遠の別れではありません。いっときの別れにすぎないのです。愛しい人とはきっといつか再び巡り会うことができるはずです。それを仏教では「倶会一処」というのですが、(前も同じことを書きましたが)これからも何度も何度もこの言葉を胸の内でくり返しながら、やがて自分の順番がくるのを待つことになるのでしょう。それが人生なのです。