坂本龍一がラジオ番組のなかで、震災以後、なかなか音楽を聴く気にならなかったと言ってましたが、その気持はよくわかります。私も本を読む気になりませんでした。やはり、震災で私たちの意識も大きく揺さぶられたのは間違いないのです。江藤淳のモノマネなのか、今回の震災を「第二の敗戦」と言った人がいましたが(何度「第二の敗戦」があるんだと思いましたが)、ただそう言いたくなる気持はわからないでもありません。
私もたまたま本屋で見つけた田中理恵子著『平成幸福論ノート』(光文社新書)を読みはじめたものの、やはり途中で放り出してしまいました。著者は、社会学者であるとともに水無田気流という筆名の詩人でもあるのだそうです。だったら、こういう紋切り型の(学者の)言葉だけでなく、少しは”詩人の言葉”もほしかった気がします。震災後に書かれたのなら、もっと違った視点が出ていたのかもしれませんが、今、私たちが求めるのは、むしろ”詩人の言葉”の方でしょう。
著者は先日、鈴木謙介が司会をつとめるTBSの「文化系トークラジオ Life」にも出演していて、番組のなかでもやたら「消極的選択」という言葉を強調していました。たとえば、夫ひとりの収入で家計をまかない、妻は専業主婦で家事・育児を一手に引き受ける高度成長型の「家族賃金モデル」がとっくに崩壊しているにもかかわらず、「従来の家族像に固執し、『安定した収入のある男性』以外とは結婚したくないという女性が、結果的に結婚できにくくなる」のを、著者は「消極的選択」と呼ぶのです。その結果、「一人の生活を選んだわけでなくても、結果的に一人になり、そしてその生活を守るための生活防衛が、いよいよ人と人との結びつきを弱める結果になってきている」のだと。
まるで結婚できないのは不幸とでも言いたげで、ものの見方があまりにも短絡的で抑圧的です。でも、そもそも多くの人生は、いつだって「安定志向」だし、リスクを回避するために旧モデルにしがみつき、常に保守的であろうとする「消極的選択」のくり返しです。なんだかんだいってもやはり「存在が意識を決定する」のは否定できず、それが「幸福論」以前の問題として私たちの人生のあり様なのです。それを「幸福論」というかたちで個人の問題に還元するのは、「自己責任論」などとまったく同じ問題のすりかえです。そして、結局は、以前もこのブログで指摘したような(「つないでいたい」)、おなじみの「つながり(つながりの再編)」になるのです。要するに、社会学の流行りの言葉で言えば、「承認の共同体」というやつなのでしょうが、それこそ手あかにまみれた共同体主義の焼き直しでしかありません。
「文科系トークラジオ Life」に出ている若い批評家たちの能天気な感性にも口をあんぐりでした。彼らは、大震災があっても原発事故があっても、「なんにも変わらない」と言うのです。オレたちは”自粛ムード”なんかではゆるぎもしない盤石な思想をもっている、とでも言いたいのかもしれませんが、その中味は『平成幸福論ノート』のように、教科書をなぞっただけのような平板なものでしかなく、単に「世間を知らない」だけです。わかりやすく政治的な構図でいえば、自民党か民主党かといったような陳腐な発想から出ることはないのです。少なくとも彼らが呪詛する「昭和」の全共闘世代は、たとえそれが荒唐無稽なものであったにせよ、既成の政治からなんとか脱け出ようとする発想がありました。批評はあきらかに後退しているのです。
佐々木敦の『ニッポンの思想』(講談社現代新書)によれば、ゼロ年代は「東浩紀の一人勝ち」だったそうですが、その東浩紀があのテイタラクではあとは推して知るべしでしょう。原発事故で最先端の科学技術なるもののバケの皮がはがされましたが、それは「現代思想」とて同じです。「鎮魂」すべきは「昭和」ではなく、むしろ「現代思想」の方でしょう。
今回の大震災や原発事故がホントに「第二の敗戦」であるのなら、必ず瓦礫のなかから「新しい言葉」が生まれるはずです。私は、チンケな「幸福論」なんかより、むしろそれに期待したいです。
私もたまたま本屋で見つけた田中理恵子著『平成幸福論ノート』(光文社新書)を読みはじめたものの、やはり途中で放り出してしまいました。著者は、社会学者であるとともに水無田気流という筆名の詩人でもあるのだそうです。だったら、こういう紋切り型の(学者の)言葉だけでなく、少しは”詩人の言葉”もほしかった気がします。震災後に書かれたのなら、もっと違った視点が出ていたのかもしれませんが、今、私たちが求めるのは、むしろ”詩人の言葉”の方でしょう。
著者は先日、鈴木謙介が司会をつとめるTBSの「文化系トークラジオ Life」にも出演していて、番組のなかでもやたら「消極的選択」という言葉を強調していました。たとえば、夫ひとりの収入で家計をまかない、妻は専業主婦で家事・育児を一手に引き受ける高度成長型の「家族賃金モデル」がとっくに崩壊しているにもかかわらず、「従来の家族像に固執し、『安定した収入のある男性』以外とは結婚したくないという女性が、結果的に結婚できにくくなる」のを、著者は「消極的選択」と呼ぶのです。その結果、「一人の生活を選んだわけでなくても、結果的に一人になり、そしてその生活を守るための生活防衛が、いよいよ人と人との結びつきを弱める結果になってきている」のだと。
まるで結婚できないのは不幸とでも言いたげで、ものの見方があまりにも短絡的で抑圧的です。でも、そもそも多くの人生は、いつだって「安定志向」だし、リスクを回避するために旧モデルにしがみつき、常に保守的であろうとする「消極的選択」のくり返しです。なんだかんだいってもやはり「存在が意識を決定する」のは否定できず、それが「幸福論」以前の問題として私たちの人生のあり様なのです。それを「幸福論」というかたちで個人の問題に還元するのは、「自己責任論」などとまったく同じ問題のすりかえです。そして、結局は、以前もこのブログで指摘したような(「つないでいたい」)、おなじみの「つながり(つながりの再編)」になるのです。要するに、社会学の流行りの言葉で言えば、「承認の共同体」というやつなのでしょうが、それこそ手あかにまみれた共同体主義の焼き直しでしかありません。
「文科系トークラジオ Life」に出ている若い批評家たちの能天気な感性にも口をあんぐりでした。彼らは、大震災があっても原発事故があっても、「なんにも変わらない」と言うのです。オレたちは”自粛ムード”なんかではゆるぎもしない盤石な思想をもっている、とでも言いたいのかもしれませんが、その中味は『平成幸福論ノート』のように、教科書をなぞっただけのような平板なものでしかなく、単に「世間を知らない」だけです。わかりやすく政治的な構図でいえば、自民党か民主党かといったような陳腐な発想から出ることはないのです。少なくとも彼らが呪詛する「昭和」の全共闘世代は、たとえそれが荒唐無稽なものであったにせよ、既成の政治からなんとか脱け出ようとする発想がありました。批評はあきらかに後退しているのです。
佐々木敦の『ニッポンの思想』(講談社現代新書)によれば、ゼロ年代は「東浩紀の一人勝ち」だったそうですが、その東浩紀があのテイタラクではあとは推して知るべしでしょう。原発事故で最先端の科学技術なるもののバケの皮がはがされましたが、それは「現代思想」とて同じです。「鎮魂」すべきは「昭和」ではなく、むしろ「現代思想」の方でしょう。
今回の大震災や原発事故がホントに「第二の敗戦」であるのなら、必ず瓦礫のなかから「新しい言葉」が生まれるはずです。私は、チンケな「幸福論」なんかより、むしろそれに期待したいです。