原発社会からの離脱

用事があって関内に行ったのですが、思ったよりはやく終わったので、大桟橋に行って客船ターミナルの待合室で本を読みました。今日は「真夏日」とかでうだるような暑さでしたが、「くじらのせなか」にのぼると心地よい海風が吹いていました。

今日読んだのは、宮台真司氏と飯田哲也氏の対談『原発社会からの離脱ー自然エネルギーと共同体自治に向けて』(講談社現代新書)です。飯田哲也氏は、事故から3ヶ月経過した現在の状況について、「あとがき」でつぎのように書いていました。

 経産省と財務省と三井住友銀行が絵を描いたとされる福島第一原発震災の損害賠償スキーム(枠組み)。東電本体や株主、金融機関など責任を取るべき人が取らず、東電をゾンビのように一〇〇年活かし続けて今の電力会社の独占を続ける一方で、まるで責任がないはずの電気料金を通じて国民負担を強いる「トンデモスキーム」が、堂々と出てくる。国民の七割が支持をした菅首相の浜岡原発停止要請に対して、他の原発を止めさせない「脅し」にも似た、メディアを利用した「電気が足りないキャンペーン」。
 一時期、思考麻痺を起こしていた原子力ムラや原子力官僚、電事連、経団連などの国の「旧いシステム」だったが、このように性懲りもなく、もう揺り戻しを始めている。ことほどさように、彼らは今回の原発震災で何も変わっていないのだ。


私もこのブログで同じことを書きましたが、これは多くの人たちに共通した認識でしょう。どうしてヨーロッパのように「脱原発」の方向に進まないのでしょうか。飯田氏によれば、自然エネルギーの普及に関しては、日本はヨーロッパに30年遅れているそうです。それどころか、未だに原子力はコストが安く、自然エネルギーにシフトすれば電気料金がはねあがり、日本の産業が立ちゆかなくなるという話がまことしやかに流通しているのが現実です(そのくせ電気料金は海外の2~3倍で、「世界一高い」と言われています)。それは二人が指摘するように、今の体制を守りたい経産省や電力会社がそう言っている(そういう仕組みをつくっている)からにほかなりません。

福島第一原発の事故が発生した当初、チェルノブイリとの比較がとりだたされました。その中に、チェリノブイリはそもそも格納容器がない旧式の原発なので、格納容器がある福島第一原発は、チェルノブイリのように放射性物質が大量に大気中に放出されることはないという話がありました。「第二のチェルノブイリ」なんていう言い方はいたずらに不安を煽るだけだ、と原子力ムラの御用学者や有名ブロガーなどが言ってましたが、3ヶ月経って、それらがすべてウソ(安全デマ)だったことが判明しました。

福島の場合、2号機と3号機に関しては、格納容器の底がぬけて核燃料が原子炉を貫通し地上に露出している、いわゆるメルトスルーがおきていることを既に東電も認めています。しかも、チェルノブイリは1機だけのメルトダウンでしたが、福島は3機のメルトダウンです。さらに、チェルノブイリは5日で収束しましたが、福島は3ヶ月以上経っても収束の見通しすらたってなく、今もまだ放射性物質がダダ漏れの状態にあります。

にもかかわらず、この悠長な対応と緊張感のない反応はなんなのでしょうか。宮台真司氏は、その背景にあるのは、行政官僚制や市場やマスコミや政府発表に対する盲目的な依存に集約される「悪い共同体」の「悪い心の習慣」だと言ってました。そして、「依存と統制」から「自治と参加」の政治に変わることによって、エネルギー政策も変えることができる(あるいは、エネルギー政策を変えることによって自治を再生できる)のだと言うのです。

自然エネルギーは、小規模で地域分散型なので、宮台氏の言う「共同体自治」とは親和性が高いのはたしかでしょう。もちろん、それは同時に、これからの社会のあり方を問い直す契機にもなるはずです。ただ、そこには日本人のメンタリティの根幹に関わる問題も伏在しているため、ことはそう簡単ではなさそうです。

たとえば、宮台氏は、「食に関する共同体自治であったはずのスローフード運動が、日本ではなぜかボディケアとか瞑想的な個人のライフスタイルの話になり、社会のあり方、つまり、ソーシャルスタイルを変えるという流れには繋が」らなかったと言ってましたが、そのとおりですね。「日本では残念ながらスローフードもウォールマート的なロハスになったし、メディアリテラシーも『これからはパソコンができないといけない』というインターネット能力の問題になってしまう」のです。今や猫も杓子もの感のある”省エネ”や”節電”にしても然りです。このままでは、「税金を払っているんだからしっかりやってくれ」「はい、わかりました。これからは万全な安全対策をとります」式で終わってしまう可能性も大なのです。

一方で、今後原発の新規着工が難しいのも事実で、エネルギー政策の転換は必至なのです。それを考えれば、ここに至ってもなお「旧いシステム」を守ろうとする経産省や電力会社の姿勢は、悪あがきだとしか思えませんが、そのツケもまた国民にまわされるのです。ヨーロッパどころか、タイや台湾やマレーシアやフィリピンやイントネシアなどアジアの国々も、既に「固定買取制」を導入していて日本の先を行ってるそうです。多くの人が指摘するように、原子力が過渡期のエネルギーで、既にその役割を終えていることはたしかでしょう。どっちにしても「脱原発」に舵を切らなければならないのです。それにしては、今のこの状況はあまりにも現実離れしていると言わねばなりません。これじゃ世界の趨勢から遅れるのは当然ではないでしょうか。

現実の政治がまったく期待できない今、この本の「これからの政治」を語る口調がどこか抽象的で、もどかしさを覚えてならないのも、やはり、この問題の難しさを物語っているような気がしました。自明性のなかに埋没した「変わらない日常」をひたすら保守する(保守したい)という「悪い心の習慣」は、想像以上に根が深いのではないか。私は、この本を読んであらためてそう思いました。

くじらのせなか_3788
「くじらのせなか」から・1

くじらのせなか_3806
「くじらのせなか」から・2
2011.06.24 Fri l 震災・原発事故 l top ▲